Nらじ放送内容文字起こし

NHKラジオの番組「Nらじ」の「ニュースのしゃべり場」<九月二日(火)18:08より>にて放送された内容を以下に文字起こししました。

山本 未果:
今日のニュースアップ、再び声を上げ始めたサリドマイド薬害の被害者についてお伝えします。石井さんはサリドマイドという薬、知ってますか?

石井 智也:
はい。薬害があったというのは知っているんですけれども、改めてどんな薬で、どんな経緯だったんでしょうか。

山本:
若い人はね、詳しく知らない人も少なくないと思いますけれども、戦後の経済成長期だったおよそ60年前、旧西ドイツの製薬会社が開発したサリドマイドは、妊婦がつわりを和らげる薬などとして各国で服用され、手や足、耳などに重い障害を負った赤ちゃんが相次いで生まれました。

海外で回収が始まりましたけれども、日本ではその対応が遅れ、その後も被害が拡大しました。被害者が相次いで民事訴訟を起こし、10年余りを経て、最終的に国と製薬会社が責任を認めて和解しました。

石井:
日本国内ではどのくらいの人に被害が及んだのでしょうか。

山本:
309人が被害者として認定されて、そのうち現在も生存しているのは250人ほどなんですけれども、多くが60代に差し掛かっています。

6月、都内で被害者やその支援者などが集まったシンポジウムが開かれました。主催したのは増山ゆかりさん。62歳です。母親が妊娠中にサリドマイドを服用し、両腕が短い状態で生まれました。(シンポジウム)冒頭での挨拶です。

増山 ゆかり:
被害者の人たちが、やっぱり今もう60年以上も前の事件なので、多くの人はね、終わった事件だと思っていらっしゃるけれども、まあ、そんなことないよと。私たちは今も生きているし、今も苦しんでいるんだっていうことをね、まあ、社会の世界にですね、訴えたいたいということになります。

石井:
はい。今も終わってない、今も苦しんでいるんだという切実な言葉がありましたね。具体的にどういうことを挙げていらっしゃるんでしょうか。

山本:
皆さん、年齢を重ねて健康や生活への影響が深刻になっているということなんです。健康面では、長年、手の代わりに足を使うなど、体を酷使したことによる不調が出てきた人が少なくありません。また障害は心臓の疾患や聴覚など人それぞれなんですけれども、内臓ですとか骨格にも健常者とは異なる点があることがその後だんだんわかってきて治療が難しいなど影響が出てきているんです。

石井:
増山さんは、今こうしたシンポジウムや介護を開いたのはどういう思いからなんでしょうか。

山本:
世界でもサリドマイドの被害に改めて向き合おうという動きがあるからなんです。去年、増山さんは被害者が3000人と世界で最も多いドイツを訪問しました。ドイツでは近年、改めてサリドマイドの薬害への補償の見直しが行われたんです。個々の状態に合わせた治療やリハビリを受けられる医療プログラムも用意されているということなんです。

さらに、増山さんにとって印象深かったのは、当事者の人たちが健康でより良い生活を送れるよう自ら声を上げ続けたことで、国の政策決定ですとか、社会の価値観を動かすきっかけになったということだったんです。そこで残りの人生、安心して送っていくために何ができるのか、共に考えたいという思いから国内外の被害者や支援者とつながるグループを立ち上げて活動を始めることにしたんです。

増山:
対応が遅れることによって命を失う人が出てきかねないという今ね、非常に緊張感のある状況にあるっていうことで、とにかく,これからのことを考えて欲しいと。どうやったらその充分に手当てされていない人たちにどうやって社会が理解を示して、またその国や製薬会社はそれに対してね、どんな風に対応してくれるのかっていうことを改めて問いたいというところだと思っています。

山本:
開催にあたって、増山さんは北海道から九州まで全国を回って、多くの被害者から聞き取りを行って、その証言を会で紹介しました。その一部をお聞きください。

増山:
今、昌也さんのその体の不調はどんな状態でしょうか

市川 昌也:
まあ、手術はあってもリスクが伴うわけだから、できる限り、今の状況を維持しましょうという感じです。

山本:
北海道に住む市川昌也さんは両腕がほとんどなく生まれ、現在はヘルニアに加えて糖尿病のため人工透析を行っています。

石井:
深刻な状況ということなんですね。

山本:
はい、そうですね。インタビューは現在の体の状況だけではなく、その生い立ちにも及びました。市川さんは生後すぐに乳児院の前に置き去りにされたといいます。

増山:
昌也くんはどんなことに一番やっぱり憤りというか、なんかこう自分がサリドマイトに生まれたことに何を感じています。

市川:
なんだろう、そのサリドマイドになったことで,例えば自分の家族がばらけたし、多分普通に生きていけば味わわないでよかったよっていうか、その苦しみを味わってきたわけじゃない、結果的にね。で、そのことはやっぱり理不尽だと思うし。

増山:
何を支えに頑張りました。

市川:
最初は憎しみだよね。でいつかなんとかして仕返ししてやるっていうだからそのために生きなきゃダメだって思うわけじゃん。

増山:
それは例えば親に対してであり社会に対して、

市川:
全部だよ。

増山:
全部だよね。今はどうですか。

市川:
今はもうねどうでもいいやって感じ。

石井:
理不尽な苦しみや憎しみを感じたと。当事者としての偽らざる思いでしょうね。本当に重い言葉ですね。

山本:
そうですね。増山さんがおこなった数多くのインタビューは、それぞれがこれまでの人生を振り返るものになりました。

増山:
初めて聞く話がすごく多くて、聞いていてですね、本当にすいませんね、なんかちょっと涙出ちゃうんですけれども、こう、なんでここまでね、皆さんがね、本当によくぞ頑張ってくれたと、よくぞね、生き延びてくれたっていう、そんな気持ちで聞いてました。

山本:
増山さんは、この皆さんのことを生き延びた人たち、サバイバーと呼んでいましたけれども、そのもう一人、山口市に住む中野 寿子さんのもとも訪ねました。中野さんは両腕と両足が短く生まれました。小中学校には通わず、家で絵を描いたり読書をしたりして過ごしました。

中野 寿子:
13歳になって初めて車椅子買ってもらったんですね。それまで本当に家が出てなくって、私が親に車椅子。もし外に出たいって言ったら、親の第一声は危ないだったですね。外に出て、私が人から見られることがどんなにね、大変なことかっていうのも多分予想したからでしょうけどね。

山本:
増山さんは中野さんにサリドマイドの被害がなかったらどんな人生だったと思うかと問いかけました。

増山:
あのサリドマイドに生まれなかったらどうって聞かれることも、私もたまにあって。

中野:
ああ、想像しますね。もしあのサリドマイドじゃなくて、普通に生まれてたらどうだったんだろうと。私もあの若い頃はよく想像しました。もしそうだったら、私、その障害がある人のこととか福祉とか、全然興味持たなかったんじゃないかなって思います。他に楽しいこといっぱい見つけちゃってね。全然違う視点を持つ全然違う人間になったんだろうなって。人間性が根本からきっと手足があるかないかで違う人生になってたんじゃないかなっていうのは思いましたね。どっちがいい悪いはわからない。

石井:
このやりとり、当事者同士だからこその本音のやりとりという感じしますね。

山本:
はい。私もそう思いました。声を上げて社会に訴える取り組みを始めると、増山さんから聞いてどう思ったのか、先週、中野さんから話を聞いてきました。最初はやはり戸惑いの気持ちもあったといいます。

中野:
もうずっと諦めてきましたからね。今回増山さんに誘っていただくまで。こういうもんだと思って我慢して生きていくしかないなと思ってましたけど。でも今回この活動に関わらせてもらって、これが今後どういう風に実を結ぶかは分かりませんけども、改めてちょっと怒ってもいいのかなっていう感じですかね、今のところ私は。

山本:
中野さんは外出時には電動車椅子に乗り換えますが、体が痛く辛くなってきたといいます。医師の診察を受けても原因が分からないと言われて根本的な治療はできていません。その他、生活でも様々制約がありますが、それもすべて受け入れてきたといいます。

しかし、増山さんの思いに触れて改めて自分の人生を振り返るとともに、日本で昔こんな薬害があったことを若い人たちにも知ってほしいと考えるようになりました。

中野:
特にだからってね、私はここで「不便な思いをしたんだ」「なんだこれは理不尽じゃないか」とか「差別だ」とか言ったことないしね。言っても疲れるじゃないですか、余計にね。まあでもそういうことを、そういう一つ一つの細かいことがいっぱいある中を60年生きてきたんですっていうののもう雰囲気、上辺だけでいいからなんかこうせっかく増山さんが始めたことだから世間にねもう一回知ってもらう場があってもいいのかな。まずはサリドマイドという事件があったということを知らない人には知ってほしいし忘れてる人には思い出してほしいし。

山本:
中野さんは,増山さんの活動に寄り添い、見守っていきたいと考えているといいます。

石井:
一緒に声を上げていくということをまず決めたということなんですね。

山本:
はい、そうですね。増山さんも今回多くの人に話を聞いて、活動への思いを一層強くしたということです。

増山:
やっぱり今、私たちが抱えている問題って、明日、明後日どうにかできることではないですし。もしかしたら自分たちが生きている間にこういった、その健康問題であるとかね、本当にこう一人で頑張ってきた人たちが生まれてよかった、生きてよかったと言ってもらえるような人生になるかっていうと、そうじゃないかもしれないけれども、でも少なくても今は自分一人じゃないっていうことを知ることができた、それだけでもすごく私は嬉しいなと思いました。

石井:
リスナーの皆さんからのメッセージいただいていまして、Xでは、「患者さんは私と同世代だけど障害を持って生まれたことで捨てられたのまだそんな時代だったのか」といったものですとか、投稿フォームからは、「日本でもこんなに苦しんでおられる方がいるとは初めて知りました。様々な届く声に熱いものを覚えて言葉がありません」といただいています。増山さん、今後は予定どうなっているんでしょうか。

山本:
増山さんですけれども、来月中旬にはドイツ、台湾から当事者を招いて交流して、実際にどのように補償の見直しが進められているのか、話を聞くシンポジウムを開くことを決めています。今後は医療ですとか生活支援の体制拡充を日本でもどう社会に求めていくか議論していきたいということです。

増山:
日本の中の私たち被害者がスタートラインに立ってほしいと。どんな被害で、こんな理不尽のね、自分たちがやっぱり声を上げることでね、同じ問題を抱えている人たちにもね、その自分たちが我慢すればいいというふうに思わずに、やっぱり立ち上がってほしいっていう声を上げることの大切さを実感してほしいというふうに思っています。

石井:
リスナーの方、Xからこのような投稿もありました。「小学校の頃、テレビで『典子は、今』を見てサリドマイド患者の存在を知りました。サリドマイド当事者や支援者の戦いが今でも現在進行形であることを知りました。サリドマイドで生まれなければどう生きていたか、この言葉にずっしりときました」といただきました。

山本:
まさに現在進行形の問題だということで、私たちもこう何ができるのかということを、あの、改めて考えたいというふうに思いました。以上、ニュースアップでした。

NHKラジオに出演します

NHKラジオの取材を受けました。

平日の夕方毎日放送される「Nらじ」という番組です。

今回は私 中野寿子 個人のことではなく、増山さんの現在の活動紹介がメインで、そこに同じサリドマイドとして 中野 はどう関わっているのか、なぜ関わろうと思ったのか、今後どう関わっていきたいか、というようなことをインタビューされました。

番組キャスターの山本未果さんが、なんと東京から日帰りで弾丸取材にいらっしゃいました。ありがとうございました。

9月2日(火)に放送予定だそうです。

聞き逃し配信もあり、ラジコでも聞けます。

思いつくままに色々しゃべりましたが、的外れな発言や、増山さんの思いと違う解釈をしている箇所もあるかもしれません。

その場合はどうかご容赦ください。

お時間のある方はぜひ聞いてみてください。

NHKラジオ第一 2025年9月2日(火) 18:00から19:55 Nらじ内 Nらじのサイト

国際サリドマイドシンポジウムに向けて

サリドマイド障害を抱えた当事者と、何も抱えていない一般の人では、完全に同じ視点でその問題点を見つめるのはなかなか難しいかもしれません。
さらに、同じサリドマイド当事者であっても、障害の程度が軽いとか重いとか、体のどの部位に障害を負ったかとか、経済環境や家庭環境などによっても問題意識は異なります。

私は両腕と両足に著しい欠損を負いました。
残念なことに、日本で認定されたサリドマイドの中で、私と同等の足の障害を持つ人はいませんでした。
外に出るには車イスが不可欠ですが、サリドマイドの集まりに参加しようと思っても会場がまったく車イスでは近寄れない設定になっていることがたびたびあって、そのたびに「ああ、私は部外者扱いなんだ」と思い知らされました。
たった一人しかいない車イス利用者のために会場を配慮できないということだったのでしょう。
それがずっと続いてきたので、私はサリドマイドの親睦会だのフォーラムだのという案内状を受け取るたびに、不満や不信感が静かに蓄積していくのを感じていました。
今回、増山ゆかりさんからこの活動にお誘いをいただくまでは、私はもう今後サリドマイドの人たちに関わることは一切ないだろうと思っていました。
実際、親しい人もいないし、先述のとおり、集まりに参加する機会も奪われてきたし、今さら参加したとしても話が合わないだろう。
そう思ってきたし、今もこの思いを覆すには至っていません。

でもこれは仕方のないことです。
他人が何に困っているのかなんて私たちは簡単には想像できませんから。

それではドイツではどうなのでしょうか。
日本の約10倍ほどの被害者がいるドイツでは、当事者間の格差はさらに複雑に複合しているのではないかと思います。
けれど彼らは団結して、薬禍の発生から60年が過ぎた今、あらためてサリドマイドの二次障害を訴えて世論を動かすことに成功しました。
どうやって団結できたのでしょうか。
意思疎通をはかり、呼びかけあい、互いの環境のギャップにどう折り合いをつけていったのか。

2025年10月、そのドイツの当事者の方たちと国際シンポジウムという形で情報交換できる機会が与えられました。
シンポジウムの会場は東京です。
私は、上記した当事者間の格差について、どう向き合っていかれたのかをぜひ聞いてみたいと思っています。
とはいえ、若い頃と違って、車イスで長距離の旅に出るのはホテルや交通機関の手配だけでかなりのストレスです。
いろいろと不安が尽きません。
唯一の救いは、増山さんがかなりバリアフリーを意識して会場探しをしてくださってることです。
このことがどれだけ私の背中を押してくれてるかわかりません。
10月。一度は放棄しようと思ったサリドマイド当事者たちとの関りがどうなっていくのか、また、私自身の気持ちがどう変わっていくのか、いろんな発見を期待して上京しようと思っています。

中野寿子 http://marobine.holy.jp

国際サリドマイドシンポジウムは10月中旬に東京都内で開催の予定。

中野寿子さんの展示作品

サリドマイドシンポジウム映像より

増山ゆかり:
絵を描くって、大変だと思いますが、何が支えでしたか? なぜ続けられるのでしょうか? 自分のお仕事にもされているので、大変だと思うのですが、その原動力というのでしょうかね。

中野寿子:
全然原動力じゃないんですね、これ。子供の頃、うちの兄弟たちがみんな学校や幼稚園に行って、家にボツンと私一人でいるから。父が本を読むことと絵を描くことを教えてくれたんですね。

児童文学全集みたいなのをバンバン買ってくれたから、 本を読むのはすごい好きで、その傍らで、私初めて父が水彩絵具の使い方を教えてくれた日のこと、今でも覚えてるんですけどね。

父が若い頃絵を描くのが好きで上手く描いていたのを教えてもらった。これをやっていれば時間が作れる。本を読んで絵を描いていれば、一日家にいることがちょっと許される、みたいな気持ちがあって、絵を描くしかなかった。

ここしか私の居場所がない。好き嫌いとか、上手い下手ではないの。教えてもらって、たまたまこれ続けられそうだから、続けちゃおうかなって。ひたすら絵を描いて、そのうち漫画を描き始めた。ストーリー漫画で、漫画家になろうと思った。漫画家だったら家にいて絵を描いていればいいから。

中野寿子プロフィール
中野寿子プロフィール
モクレン
モクレン
あじさい
あじさい
鐘の鳴る朝
鐘の鳴る朝
Spring Song
Spring Song

ここで掲載した作品はどれも会場設営中に撮影したものです。

歪みのない状態の作品はまろびね工房で見られます。

中野寿子さんの証言

以下のインタビューはサリドマイドシンポジウム内で上映されました。


スライドによる説明:中野さんは、山口県にお住まいです。腕は短く手首が曲がっています。両脚がほとんどないために、歩くことができません。電動車椅子で生活をしています。アーティストとして絵の創作をされています。欠格条項という法律によって、障害を持つ子どもの親は、子どもを就学させなければならない義務を免除/猶予され、中野さんは義務教育が受けられませんでした。初めての学校は、県立山口高校の通信教育でした。

寿子:
山口に住んでいます中野寿子と申します。

昨日増山さんがわざわざ遠くから来てくださって、いろいろとお話をして楽しい2日間をいま過ごしています。

山口で生まれ育ちました。私は兄弟が多くて、6人姉弟なんですね。6人姉弟の私が一番上で、妹一人がいて、あとはみんな男で、なかなか賑やかに暮らしてきましたが、私自身は当時はまだ義務教育を免除するということがあって、小学校も中学校も行っていません。なので、たぶんいまだに小学校の低学年がやるような算数もできないと思いますね。

私が15歳になったとき、普通はもう中学校3年生ぐらいで義務教育が終わる年なんですけど、その頃に訪問教育をしましょうと言われました。

山口市内にある日赤病院の中の院内学級で教えていらっしゃる先生が 一週間のうちで空いている時間を私の自宅まで来てマンツーマンで教えられることだけを教えましょうと。なので小学校をすっ飛ばしていきなり中学校の訪問教育を15歳から受けるようになったんですね。

でも先生の人数も限られている、一週間のうちに来てもらえる時間も限られているので、 週に3回、1時間ずつ、英語と国語と社会だけを3年間習いました。それでもすごい楽しかったわけです。先生に学ぶという経験が初めてだったのでね。

その3年間が終わって、一応中学校の卒業証書をもらったんだけど、そのとき先生がね、中野さんどうする? 僕がここに来なくなったら、中野さんまた学ぶ機会がもうなくなっちゃう。

通信制高校ってあるよと。そこなら基本は家にいて、レポートを書いて提出することで勉強ができるから、あなたは算数とか理科とかやってないから、ここはどうしても全教科を受けなきゃいけないから、そこのハードルどうするかって問題はあるんだけど、ちょっとトライしてみないかということで、山口市内にある県立山口高校の通信制の先生に相談に行ったら、結構すぐ受けてくれてね。当時の通信制高校はちょっと今とは状況が違っていて、30代、40代の社会人になったかたが生徒の圧倒的多数だったんですね。

「中学校出てもどうしてもすぐ働かなきゃいけない。働きだしたけども、仕事上どうしても高校卒業の資格が最低限必要だから」

そういう人たちが学校卒業して何十年も経ってからまた学びに来てるので、状況的には私とそんなに変わらないわけです。学力的な面とかね、一から学ばなきゃいけないっていう状況にもなってね。だから大丈夫だと。

みんなでサポートするので「おいで」と言われました。家でレポートを書くだけでは単位は出せないので、月に2、3回のスクーリングに登校してもらわないと単位は取れないよと。それまで家を出たことがなくて、13歳で初めて車椅子買ってもらったけれど、それは中学校の卒業式に出るためだったのね。あと文化祭とかにも呼ばれたので、そのためにやっと車椅子買ってもらったんだけど、でも私が親に車椅子を押し外に出たいって言ったら、親の第一声は「危ない」でした。外に出ると人にどんな目で見られるか予想したからでしょうけれど。車椅子を買ってもらって、中学校の文化祭と卒業式に出て、そのあといよいよ高校の入学式に出させてもらって、スクーリングに行って、初めて私の学校生活が始まったんですよね。

すごく嬉しくて。初めて自分の教室にクラスメイトが、年齢はバラバラだけどいる。自分の教科書があって、先生が目の前の黒板に何か書いて授業があって、このシチュエーションの中に自分がいるっていうのが本当に新鮮で、楽しかったんですよ。

当時の通信制高校は4年制でね。4年間通ったんですけど、勉強の中身はほとんど覚えてないんだけど、とにかくそこであった人との交流ね。やっと自分から外に出て、人と知り合うっていう経験がやっとそこでできた。

クラスメイトがみんな30代、40代の社会人だから、自分の仕事のこととか、家庭のこととか、社会のこと、色々、世間話の中で教えてくれる。これはもう本当に、学校の勉強よりもずっと面白くてね。本当に人に恵まれましたね。

スライドによる質問:人生で楽しかったことは何ですか?
 
寿子:
人間関係に恵まれたことですね。本当にそうなんですね。それこそ、通信制時代の人間関係も今も続いているし、本当に繋がるんですよ、何か知らないけど。

毎日行くスーパーのレジのおばちゃんも話していたら、そのまま繋がっているんですよ、ずっとね。スーパーでの付き合いだけじゃなくて、街で会って声をかけられたりして親しく話したり。

母は最後に認知症になったんですけれど、自宅に来てくださっていたかかりつけの先生やお医者さんたちも、母が亡くなったあとも私のことをずっと気にかけてくださったりとか、一回途切れたなと思ったら縁がまた繋がったりとか。友達もね、音楽やってる友達とか、絵を描く友達とか、わたし絵を描きますので、本当に13歳まで家にこもってた割には、その後の人間関係に本当に支えられて、 それだけが私の財産と思ってます。

ゆかり:
とても人としては幸せなことですね。

寿子:
幸せです。

ゆかり:
絵を描くって、大変だと思いますが、何が支えでしたか? なぜ続けられるのでしょうか? 自分のお仕事にもされているので、大変だと思うのですが、その原動力というのでしょうかね。

寿子:
全然原動力じゃないんですね、これ。子供の頃、うちの兄弟たちがみんな学校や幼稚園に行って、家にボツンと私一人でいるから。父が本を読むことと絵を描くことを教えてくれたんですね。

児童文学全集みたいなのをバンバン買ってくれたから、 本を読むのはすごい好きで、その傍らで、私初めて父が水彩絵具の使い方を教えてくれた日のこと、今でも覚えてるんですけどね。

父が若い頃絵を描くのが好きで上手く描いていたのを教えてもらった。これをやっていれば時間が作れる。本を読んで絵を描いていれば、一日家にいることがちょっと許される、みたいな気持ちがあって、絵を描くしかなかった。

ここしか私の居場所がない。好き嫌いとか、上手い下手ではないの。教えてもらって、たまたまこれ続けられそうだから、続けちゃおうかなって。ひたすら絵を描いて、そのうち漫画を描き始めた。ストーリー漫画で、漫画家になろうと思った。漫画家だったら家にいて絵を描いていればいいから。

当時は少女漫画の雑誌のうしろに文通欄があって、そこから文通を申し込んで、知らない人と知り合うツールでしたね。その中に漫画同人誌のメンバー募集というのが二つあって、一つが東京をメインに活動していて、もう一つが広島で活動しているグループで、両方のグループに自分が描いた絵を送ってみました。

家族しか見ていない絵を送って、ドキドキしました。一緒にやりましょうと言っていただいたので、同人誌に漫画を投稿することを始めた。みんな遠くに住んでいて、会ったことはなく作品だけを知っているという関係。

他人に絵を見てもらうことで、自分でもわかるくらい面白いくらい絵が上達したんです。人に見てもらい評価される、欠点を教えてもらうってことは、他者の目で見てもらうことの大事さを実感しました。家に一人でしか生活していないから、自分が絵を通して人と知り合うことができたことが、楽しくて新鮮でした。ますます絵しか自分にはなくなっていって、今に至ります。

ゆかり:
挿絵とかポスターとかも描いてご活躍されていると伺っていました。

スライドによる質問:サリドマイドに生まれたということは、中野さんにとってどんな影響がありましたか? サリドマイドに生まれていなければ?という言いかえでお答えいただいてもOKです。

ゆかり:
私も中野さんもサイドマイドに生まれて、もうかれこれ60年以上生きましたね。私は子どもの時は、大人になれないとずっと言われてきて 「え、なれないんだ」って、私心臓も悪かったですし。で、まあ、でも怖いとかあんまりなくて、生きられるまで生きればいいやって言っているうちに、こんな年になってしまいましたけれども、 うかがってみたいなと思うのは、中野さんが60何年生きていらして、もともとサリドマイドで生まれたっていうことが、自分の人生の中にどんな光なのか影なのか足跡なのか分かりませんけれども、どんな影響を与えてきたのかなというのは何かそこに思いはありますか?
 
寿子:
わからないな、それはわからないです。人から見たらコントラストが強いと思われるのかな。人から見たらそうなんだろうと思います。自分がサリドマイドに生まれたことって、どういうことなのかって、そうですねぇ……

ゆかり:
私は逆もあります。サリドマイドに生まれなかったらどうかって聞かれることもありますがそれも自分の想像を超えている気がします。

もしかしたらバリバリ働いているかもしれないし、職業もきっと今と違う仕事についていたと思うし、まったく違う人生を生きていたと思う。今はサリドマイド以外の自分を知らないので、ま、いいかと思っています。この辺で落ち着こうと思っています。

寿子:
想像はしますね。もしサリドマイドに生まれずに、普通に生まれていたらどうだったかって。

若い頃はよく想像しました。今ごろ会社勤めをして、ハイヒールを履いて、カカッと音を立てて歩く自分を。もしそうだったら障害がある人や福祉にぜんぜん興味を持たなかったと思います。他に楽しいことをいっぱい見つけちゃって。ぜんぜん違う視点を持つ人間になったと思う。

根本的に人間性は手足があるかないかで違う人生になったんだろうと思いました。どっちが良い悪いかわからないですが。私はサリドマイドに生まれたから絵を描くようになり、普通に社会人やっていたら、絵は描いていなかったと思う。絵を描く人生で良かったと思う。わかんないですけどね。