中野寿子さんの展示作品

サリドマイドシンポジウム映像より

増山ゆかり:
絵を描くって、大変だと思いますが、何が支えでしたか? なぜ続けられるのでしょうか? 自分のお仕事にもされているので、大変だと思うのですが、その原動力というのでしょうかね。

中野寿子:
全然原動力じゃないんですね、これ。子供の頃、うちの兄弟たちがみんな学校や幼稚園に行って、家にボツンと私一人でいるから。父が本を読むことと絵を描くことを教えてくれたんですね。

児童文学全集みたいなのをバンバン買ってくれたから、 本を読むのはすごい好きで、その傍らで、私初めて父が水彩絵具の使い方を教えてくれた日のこと、今でも覚えてるんですけどね。

父が若い頃絵を描くのが好きで上手く描いていたのを教えてもらった。これをやっていれば時間が作れる。本を読んで絵を描いていれば、一日家にいることがちょっと許される、みたいな気持ちがあって、絵を描くしかなかった。

ここしか私の居場所がない。好き嫌いとか、上手い下手ではないの。教えてもらって、たまたまこれ続けられそうだから、続けちゃおうかなって。ひたすら絵を描いて、そのうち漫画を描き始めた。ストーリー漫画で、漫画家になろうと思った。漫画家だったら家にいて絵を描いていればいいから。

中野寿子プロフィール
中野寿子プロフィール
モクレン
モクレン
あじさい
あじさい
鐘の鳴る朝
鐘の鳴る朝
Spring Song
Spring Song

ここで掲載した作品はどれも会場設営中に撮影したものです。

歪みのない状態の作品はまろびね工房で見られます。

中野寿子さんの証言

以下のインタビューはサリドマイドシンポジウム内で上映されました。


スライドによる説明:中野さんは、山口県にお住まいです。腕は短く手首が曲がっています。両脚がほとんどないために、歩くことができません。電動車椅子で生活をしています。アーティストとして絵の創作をされています。欠格条項という法律によって、障害を持つ子どもの親は、子どもを就学させなければならない義務を免除/猶予され、中野さんは義務教育が受けられませんでした。初めての学校は、県立山口高校の通信教育でした。

寿子:
山口に住んでいます中野寿子と申します。

昨日増山さんがわざわざ遠くから来てくださって、いろいろとお話をして楽しい2日間をいま過ごしています。

山口で生まれ育ちました。私は兄弟が多くて、6人姉弟なんですね。6人姉弟の私が一番上で、妹一人がいて、あとはみんな男で、なかなか賑やかに暮らしてきましたが、私自身は当時はまだ義務教育を免除するということがあって、小学校も中学校も行っていません。なので、たぶんいまだに小学校の低学年がやるような算数もできないと思いますね。

私が15歳になったとき、普通はもう中学校3年生ぐらいで義務教育が終わる年なんですけど、その頃に訪問教育をしましょうと言われました。

山口市内にある日赤病院の中の院内学級で教えていらっしゃる先生が 一週間のうちで空いている時間を私の自宅まで来てマンツーマンで教えられることだけを教えましょうと。なので小学校をすっ飛ばしていきなり中学校の訪問教育を15歳から受けるようになったんですね。

でも先生の人数も限られている、一週間のうちに来てもらえる時間も限られているので、 週に3回、1時間ずつ、英語と国語と社会だけを3年間習いました。それでもすごい楽しかったわけです。先生に学ぶという経験が初めてだったのでね。

その3年間が終わって、一応中学校の卒業証書をもらったんだけど、そのとき先生がね、中野さんどうする? 僕がここに来なくなったら、中野さんまた学ぶ機会がもうなくなっちゃう。

通信制高校ってあるよと。そこなら基本は家にいて、レポートを書いて提出することで勉強ができるから、あなたは算数とか理科とかやってないから、ここはどうしても全教科を受けなきゃいけないから、そこのハードルどうするかって問題はあるんだけど、ちょっとトライしてみないかということで、山口市内にある県立山口高校の通信制の先生に相談に行ったら、結構すぐ受けてくれてね。当時の通信制高校はちょっと今とは状況が違っていて、30代、40代の社会人になったかたが生徒の圧倒的多数だったんですね。

「中学校出てもどうしてもすぐ働かなきゃいけない。働きだしたけども、仕事上どうしても高校卒業の資格が最低限必要だから」

そういう人たちが学校卒業して何十年も経ってからまた学びに来てるので、状況的には私とそんなに変わらないわけです。学力的な面とかね、一から学ばなきゃいけないっていう状況にもなってね。だから大丈夫だと。

みんなでサポートするので「おいで」と言われました。家でレポートを書くだけでは単位は出せないので、月に2、3回のスクーリングに登校してもらわないと単位は取れないよと。それまで家を出たことがなくて、13歳で初めて車椅子買ってもらったけれど、それは中学校の卒業式に出るためだったのね。あと文化祭とかにも呼ばれたので、そのためにやっと車椅子買ってもらったんだけど、でも私が親に車椅子を押し外に出たいって言ったら、親の第一声は「危ない」でした。外に出ると人にどんな目で見られるか予想したからでしょうけれど。車椅子を買ってもらって、中学校の文化祭と卒業式に出て、そのあといよいよ高校の入学式に出させてもらって、スクーリングに行って、初めて私の学校生活が始まったんですよね。

すごく嬉しくて。初めて自分の教室にクラスメイトが、年齢はバラバラだけどいる。自分の教科書があって、先生が目の前の黒板に何か書いて授業があって、このシチュエーションの中に自分がいるっていうのが本当に新鮮で、楽しかったんですよ。

当時の通信制高校は4年制でね。4年間通ったんですけど、勉強の中身はほとんど覚えてないんだけど、とにかくそこであった人との交流ね。やっと自分から外に出て、人と知り合うっていう経験がやっとそこでできた。

クラスメイトがみんな30代、40代の社会人だから、自分の仕事のこととか、家庭のこととか、社会のこと、色々、世間話の中で教えてくれる。これはもう本当に、学校の勉強よりもずっと面白くてね。本当に人に恵まれましたね。

スライドによる質問:人生で楽しかったことは何ですか?
 
寿子:
人間関係に恵まれたことですね。本当にそうなんですね。それこそ、通信制時代の人間関係も今も続いているし、本当に繋がるんですよ、何か知らないけど。

毎日行くスーパーのレジのおばちゃんも話していたら、そのまま繋がっているんですよ、ずっとね。スーパーでの付き合いだけじゃなくて、街で会って声をかけられたりして親しく話したり。

母は最後に認知症になったんですけれど、自宅に来てくださっていたかかりつけの先生やお医者さんたちも、母が亡くなったあとも私のことをずっと気にかけてくださったりとか、一回途切れたなと思ったら縁がまた繋がったりとか。友達もね、音楽やってる友達とか、絵を描く友達とか、わたし絵を描きますので、本当に13歳まで家にこもってた割には、その後の人間関係に本当に支えられて、 それだけが私の財産と思ってます。

ゆかり:
とても人としては幸せなことですね。

寿子:
幸せです。

ゆかり:
絵を描くって、大変だと思いますが、何が支えでしたか? なぜ続けられるのでしょうか? 自分のお仕事にもされているので、大変だと思うのですが、その原動力というのでしょうかね。

寿子:
全然原動力じゃないんですね、これ。子供の頃、うちの兄弟たちがみんな学校や幼稚園に行って、家にボツンと私一人でいるから。父が本を読むことと絵を描くことを教えてくれたんですね。

児童文学全集みたいなのをバンバン買ってくれたから、 本を読むのはすごい好きで、その傍らで、私初めて父が水彩絵具の使い方を教えてくれた日のこと、今でも覚えてるんですけどね。

父が若い頃絵を描くのが好きで上手く描いていたのを教えてもらった。これをやっていれば時間が作れる。本を読んで絵を描いていれば、一日家にいることがちょっと許される、みたいな気持ちがあって、絵を描くしかなかった。

ここしか私の居場所がない。好き嫌いとか、上手い下手ではないの。教えてもらって、たまたまこれ続けられそうだから、続けちゃおうかなって。ひたすら絵を描いて、そのうち漫画を描き始めた。ストーリー漫画で、漫画家になろうと思った。漫画家だったら家にいて絵を描いていればいいから。

当時は少女漫画の雑誌のうしろに文通欄があって、そこから文通を申し込んで、知らない人と知り合うツールでしたね。その中に漫画同人誌のメンバー募集というのが二つあって、一つが東京をメインに活動していて、もう一つが広島で活動しているグループで、両方のグループに自分が描いた絵を送ってみました。

家族しか見ていない絵を送って、ドキドキしました。一緒にやりましょうと言っていただいたので、同人誌に漫画を投稿することを始めた。みんな遠くに住んでいて、会ったことはなく作品だけを知っているという関係。

他人に絵を見てもらうことで、自分でもわかるくらい面白いくらい絵が上達したんです。人に見てもらい評価される、欠点を教えてもらうってことは、他者の目で見てもらうことの大事さを実感しました。家に一人でしか生活していないから、自分が絵を通して人と知り合うことができたことが、楽しくて新鮮でした。ますます絵しか自分にはなくなっていって、今に至ります。

ゆかり:
挿絵とかポスターとかも描いてご活躍されていると伺っていました。

スライドによる質問:サリドマイドに生まれたということは、中野さんにとってどんな影響がありましたか? サリドマイドに生まれていなければ?という言いかえでお答えいただいてもOKです。

ゆかり:
私も中野さんもサイドマイドに生まれて、もうかれこれ60年以上生きましたね。私は子どもの時は、大人になれないとずっと言われてきて 「え、なれないんだ」って、私心臓も悪かったですし。で、まあ、でも怖いとかあんまりなくて、生きられるまで生きればいいやって言っているうちに、こんな年になってしまいましたけれども、 うかがってみたいなと思うのは、中野さんが60何年生きていらして、もともとサリドマイドで生まれたっていうことが、自分の人生の中にどんな光なのか影なのか足跡なのか分かりませんけれども、どんな影響を与えてきたのかなというのは何かそこに思いはありますか?
 
寿子:
わからないな、それはわからないです。人から見たらコントラストが強いと思われるのかな。人から見たらそうなんだろうと思います。自分がサリドマイドに生まれたことって、どういうことなのかって、そうですねぇ……

ゆかり:
私は逆もあります。サリドマイドに生まれなかったらどうかって聞かれることもありますがそれも自分の想像を超えている気がします。

もしかしたらバリバリ働いているかもしれないし、職業もきっと今と違う仕事についていたと思うし、まったく違う人生を生きていたと思う。今はサリドマイド以外の自分を知らないので、ま、いいかと思っています。この辺で落ち着こうと思っています。

寿子:
想像はしますね。もしサリドマイドに生まれずに、普通に生まれていたらどうだったかって。

若い頃はよく想像しました。今ごろ会社勤めをして、ハイヒールを履いて、カカッと音を立てて歩く自分を。もしそうだったら障害がある人や福祉にぜんぜん興味を持たなかったと思います。他に楽しいことをいっぱい見つけちゃって。ぜんぜん違う視点を持つ人間になったと思う。

根本的に人間性は手足があるかないかで違う人生になったんだろうと思いました。どっちが良い悪いかわからないですが。私はサリドマイドに生まれたから絵を描くようになり、普通に社会人やっていたら、絵は描いていなかったと思う。絵を描く人生で良かったと思う。わかんないですけどね。


 

フリージャーナリスト飯田和樹さんの発言

サリドマイドシンポジウムのパネルディスカッション「薬害が日本社会のありようを問う」にて、フリージャーナリストの飯田和樹さんから以下の発言がありました。


元毎日新聞の記者で、フリージャーナリストの飯田和樹といいます。子どもにダウン症があることもあり、普段は障害の問題をメインテーマに取材をしています。私自身は、正直なところ、薬害の問題に詳しいわけではありませんが、今回、増山さんからお話をいただき、この場に登壇させていただくことになりました。よろしくお願いいたします。

まず、少し違う話になるかもしれませんが、2016年に起きた津久井やまゆり園事件について話をさせてください。

入所者である知的障害のある人たち19人が、元職員である植松聖(うえまつ・さとし)という現在は死刑囚となった男性に、次々と殺害された事件です。

植松死刑囚は「生産性がない障害者は生きる価値がない」といった類のことをいろんな場面で口にしていたと報じられています。

その言葉を聞いた私の仲の良い友人である脳性麻痺のある男性は「もしかしたら自分は殺されていたかもしれないと思った」と言いました。

一方、私は「もしかしたら自分は殺す側だったかもしれない」と思いました。

なぜなら、私は、カギカッコ付きの「役に立つ」という価値観の下、競争をしてきた人生だったためです。

彼の言葉は、今の社会の根底に流れている考え方だ。彼は突如あらわれた特別な考え方をした人ではなく、間違いなく今の社会が生み出した人だ。

しかも、私はその社会を、ある意味積極的に受け入れて過ごしてきたのだ。そう思いました。

「当事者」という言葉をどのように使っていいのかについては非常に難しい部分があるのですが、誤解を恐れずにいうと、私はこの事件の当事者であると感じたのです。

そのように思い始めると、もう、頭から離れません。

事件の本などは買うのですが、ページをめくるのが遅くなりました。「お前も加害者である」と書いてあるように読めたからです。

なぜ、こんなことを話したのかというと、これは津久井やまゆり園事件に限った話ではないと思うからです。もっといえば、サリドマイド薬害事件でも同じであると思います。私たちこそが、薬害事件が生まれうる社会をつくっている一員であるのだと、私は思います。

サリドマイド薬害と同様、日本の行動経済成長期に発生した水俣病。その患者認定運動の最前線で闘い、その後認定申請を取り下げた緒方正人さんは、その著書『チッソは私であった:水俣病の思想』(河出文庫)の中で次のように書いています。少し引用します。


チッソとは何なんだ、私が闘っている相手は何なんだということがわからなくなって、狂って狂って考えていった先に気付いたのが、巨大な「システム社会」でした。私がいっている「システム社会」というのは、法律であり制度でもありますけれども、それ以上に、時代の価値観が構造的に組み込まれている、そういう世の中です。それは非常に怖い世界として見えました。(中略)まさに水俣病を起こした時代の価値観に支配されているような気がするわけです。

私たちは、水俣病を起こした時代の価値観、サリドマイド薬害を起こした時代の価値観、津久井やまゆり園事件を起こした時代の価値観に支配されてしまっているのではないでしょうか。

私たちは、いろんなことを知らないまま、過ごすことができてしまっています。

言葉で意思を表すことが得意ではない知的障害のある人たちが持っている怒り。サリドマイドサバイバーの方々のこれまで生きて生きた中で味わった苦しみ、そしていま直面している日々の苦しみ。

しかし、これらは私たちがつくってきた社会によって引き起こされているのだと思います。だからこそ、この社会を作っている一員として、この問題について考えていきたいと思います。

河口智彦さんの展示作品

サリドマイドシンポジウムにて

__________己書(おのれしょ)を始めたきっかけはなんですか?

3年前、他県のある聞こえない女性師範から「楽しいよ〜描いてみたら?」と勧められて始めました。

スタート時に、「興味あるか? 趣味としてやりたいか? 師範になりたいか?」という三つの選択肢があり、私は最初から師範を目指しました。

2年前の二月、大雨の中で師範の試験を受け、無事に合格し、昨年の五月から家で道場を開きました。

教えるのではなく、楽しさを伝えています。

参加者の皆さんに手書きのハガキをいただきました。

入り口の横断幕も河口さんに書いていただきました。

増山ゆかりさんの発言

サリドマイドシンポジウムにて

なんのために生まれ、なんのために生きるのか
増山 ゆかり

昨年の春、私は還暦を迎えたという区切りもあり、久し振りに故郷の北海道に帰りました。幼少期を施設で育った私の友人の多くは、私と同じサリドマイドです。未知の身体で生まれた私たちは大人になれないと言われ、経過観察の意味もあったのでしょうが、東京の施設に集められ治療や訓練を受けていました。苦しい時期を共に乗り越えた戦友のような存在です。

そのひとりが入院したと聞いて、お見舞いに行こうとしたことが帰郷のきっかけでもありました。ヘルニアの悪化で歩けなくなった友人の姿を見て、強い衝撃を受け言葉が出てきませんでした。足を使う私たちは、足が使えなくなると、自立した生活を送ることはできなくなります。これが自分たちの運命だと受け入れている友人のために、私は私のできることをしなくてはと思いました。なぜあらがおうとしなかったのだろうと自分に腹が立ちました。

サリドマイド被害者が多いドイツに行けば、なにか問題解決の手がかりがあるかもしれないと思い、気がつけばドイツ行きの飛行機の中でした。彼らは国や製薬会社と交渉し、十分に治療を受けるために年金の増額をし、病院にはサリドマイド外来が設置されるようになっていました。「新たに救済を受けたのではなく、自分たちの権利を行使しました。尊厳ある人生を取り戻したかった」と話してくれました。

私は日々の生活の中で、雨が降っても傘はさしません。傘はさせないので濡れて歩くだけです。ひとりで外食するときは、食べたいものを食べる習慣はありません。自分で食べられるものを食べています。洋服は着たい服ではなく、自分ひとりで着られる服を買います。

生まれたときは心臓が悪く、いつ死んでもおかしくないと言われました。 成長と共に体力がついて、今日があり明日がくるという人生を歩き出しました。そんなときに両親が離婚し家族はバラバラになり、あっという間にひとりぼっちになってしまいました。家族と暮らす経験がない人生でした。

また未知の身体で生まれるということは、想像以上に厄介なことでした。

いたるところに奇形や欠損があるために、病気をしても普通に治療ができません。例えば私の場合は顎に低形成があり、一本でも入れ歯は入れるのが難しいことがわかりました。ガンを患った時に、血管が細く造影剤や抗がん剤を使うことが難しかったのです。薬が作り出した未知の体は、人類にとって初めての体であり、これまで人類が蓄積してきた医療技術の、恩恵を授かることはできません。

ある朝、私は突然起き上がれなくなりました。これは何度か繰り返される症状です。首から背中にかけて激しい痛みに襲われ、呼吸をすることもやっとの状態になりました。夫に抱えられ病院に行き検査をしましたが、結局どこからくる痛みかわからず、治療はできないと湿布薬を渡され帰されました。一ヶ月ほど寝たきりになり、徐々に痛みがなくなり、ようやく元の生活に戻っていきました。どんな体なのか研究され尽くしていない私たちですので、今の状況では病気になっても治療方法は永遠に手に入りません。

誰にとっても完璧な人生はないし、嘆いたところで現実は変わるわけではないので、みな「苦しいのは自分だけではない」と言い聞かせ、スポーツを楽しめなくても、趣味を楽しめなくても、治療ができない体でも、不平不満も言わず今日まで来ました。諦めることを「よし」とする生き方は潔く、ある種の美しさがあります。私の幸せのありようを表してはいるように思うのです。自分が生きたいように生きてきたのかというとそうではありません。ときどき誰かに詫びたい気持ちになりました。いったい誰に何を詫びればいいのかわかりませんでしたが。

いま、私が思うことは私たちの問題は別の誰かの問題であり、特殊な状況にある自分たちが我慢さえすれば良い、ではないのだということです。この問題を改善することは、誰かの明日の生きるにつながっていると思います。

河口智彦さんの発言

サリドマイドシンポジウムにて

こんにちは。

私は、聴覚障害の河口智彦です。よろしくお願いします。

サリドマイドは、上腕から手先までの障害がとても多く、難聴を含む聴覚障害者もいることは案外知られていません。

私自身は、はっきりとした記憶ないのですが、5歳くらいに自分の耳がないことに気がつきました。

母の話を聞くと私は母の耳を握って耳がほしいというような動作をしたそうです。

耳が無いため、周りの人から見えないように母手作りの耳のカバーを紐で結び覆っていました。

自宅前の道は、通学路だったので行き交う小学生達に「あれはなんだ!」と馬鹿にされたり笑われたりして悔しい思いが積み重なっていったのを覚えています。

小学部5年生の頃、東京で全国のろう学校 P T A 総会があって、母が参加し、講演者の話を聞いて私の障害はもしかするとサリドマイドなのかも?と終了後に講演者からアドバイスをもらった。

その足で東京の病院に向かい、診察の結果、サリドマイドだと診断された。

生まれてから10年間も身体の障害の原因はわからないままだったのだがやっとここで判明したということになる。

サリドマイド薬の服用期間、また胎児の成長のどの段階で服用されたのか、で障害は異なった。

私の場合は、母が多分妊娠1ヶ月と7日から10日くらいの間に服用し、この時点では胎児の身長は4ミリから6ミリで、耳は生育しておらず、神経麻痺など影響を受けた。

寝るときも目はうっすら開いたままになってしまっている。

辛いものなど食べるとき、くしゃみをするとワニのようになってしまっている目から自然に涙が出てしまう。

きこえない者同士で必要不可欠な口話は唇を閉じることができないのでコミュニケーションが不十分なものになってしまう。 (他のきこえない人より重い言語障害を負っていることになる。 )

ほかに運転免許証の顔写真を撮るとき、口は閉じるように指示される。が、私は無理なことなので両手で口を挟んで歯を見せないようにするのだが、これからも一生、更新のたびことにこのような撮影をしなければなりません。

ほかにも食事の際に困ることは、口はすぼめることができずにスープを口の中に入れるときにこぼれてしまうこと。

唇を閉じて咀嚼するのはマナーだが口を閉じることが出来ないので食べ物をこぼすのは幼い子供のように日常的になっている。理解のある人としか食卓は囲めないことになる。

お茶や液体を口にするときは、コップの縁に舌を乗せ、こぼれないように工夫して飲んでいる。

歯磨きや歯科治療のときの口中を水でゆすぐ時は手を使って唇を両方からつまむようにして水を流し込むことにしている。

鼻の中は、普通の人から比べるとかなり狭いうえに曲がっているので口呼吸しかできません。

鼻毛の役割は、外気に含まれている汚物を防ぐ役割があるが私の場合は汚染された空気が口から直接入ってくるため肺疾患の恐れがあるのではと、とても心配している。

顔の神経が麻痺しているため、一生、笑顔の写真は撮ることはできないのだが、一つだけ願いが叶うならば笑顔の写真を撮ってみたい、ということと、私の顔に対する偏見がいつか無くなってほしいと強く願っています。

サリドマイドシンポジウムの概要

6月22日におこなわれたサリドマイドシンポジウムの概要をお伝えします。

以下のスライドを用いて進行いたしました。


証言者の声を聴く「なんのために生まれ、なんのために生きるのか

河口智彦(かわぐちとしひこ)さんの発言

中野寿子(なかのひさこ)さんの発言

○ ○ ○

パネルディスカッション「薬害が日本社会のありようを問う

フリージャーナリスト飯田和樹さんの発言

薬害サリドマイド被害者 増山ゆかりさんの発言

○ ○ ○

展示作品

河口智彦さんの展示作品

中野寿子さんの展示作品

完成までしばらくお待ちください。

サリドマイドシンポジウムが無事に終わりました

以前から告知していたサリドマイドシンポジウムですが、6月22日に無事終了いたしました。

ご協力いただき、またシンポジウムに参加していただいた皆さんに感謝申し上げます。

当日夜にはNHKでもニュースとして放送していただきました。ありがとうございます。

当日夕方にWebで報じられた内容は以下のとおりです。

サリドマイド薬害シンポジウム 深刻な影響出ている実情訴える NHK 2025年6月22日17:32

サリドマイド・サバイバーであり、日本己書道場公認 道場師範の河口智彦さん直筆の記念ハガキを、参加者はいただきました。心のこもった作品を提供していただき、ありがとうございます。

シンポジウムの内容、展示されたアーティストの作品については、後日報告いたします。

サリドマイドシンポジウムの告知文はこちらに。

シンポジウムのアーティスト

6月22日におこなわれるサリドマイドシンポジウムの会場に二人のアーティストの作品を数点展示いたします。

中野寿子さん
イラストレーター
「続 薬禍の歳月 薬害サリドマイド事件60年」に出演。

まろびね工房
http://marobine.holy.jp

河口智彦さん
日本己書道場公認 道場師範
旧優生保護法訴訟で和解が成立し、名古屋高裁前で掲げられた旗は、河口さんの字。この時のことを報じた朝日新聞も展示なさるそうです。

かわぐちさんのfacebook
https://www.facebook.com/profile.php?id=100095094770812

シンポジウムへの参加費は無料です。ぜひいらしてください。

堂々と風を切って生きたい

以前にヨーロッパで開かれていた、サリドマイド国際会議に何度も出席しました。世界中からサリドマイドが集まり、それはそれは壮大なイベントでした。ドレスアップして、Welcome partyで踊って歌い、パラグライダーに初めて乗って、ドライバーと格闘しながらゴルフもして、山盛りの貝を食べて、初めてづくしの目まぐるしい時間を過ごしました。でも、若かった私にできなかったことは、タンクトップを着るということです。障害がある部分も気にせず、みな手や足をポンと出して颯爽と過ごす姿が、風に向かうライオンのようでした。

人として憂いをまとわない姿、尊厳ある生き方をしているとは、こういうことなのかと思いました。私はすぐ真似をしたくてタンクトップを買い、街を堂々と闊歩しようと頑張ったのですが、タンクトップを着ていると落ち着かず着るのをやめてしまいました。ああ、なんてこと。

私は外出先では、食べたいものは食べません。食べられるものを食べます。雨が降っても傘はさしません。濡れて歩きます。髪型も好きな髪型ではなく、手間がかからないことが最優先です。

私の服の基準は、自分で着れる服ということなので、タンクトップは条件を満たしているにも関わらず、着てこなかった唯一の服です。

ああ、自由に生きるってどういうことだろう? 尊厳ある生き方ってなんだろうと今でも悩んでいます。人生が終わる前に決着をつけたいです(笑)。

人に尊厳を認めさせることより、自分を納得させることの方が難しい。自分を恥じることなく、いつでも堂々と風を切っていたいです。