サリドマイドシンポジウムにて
なんのために生まれ、なんのために生きるのか
増山 ゆかり
昨年の春、私は還暦を迎えたという区切りもあり、久し振りに故郷の北海道に帰りました。幼少期を施設で育った私の友人の多くは、私と同じサリドマイドです。未知の身体で生まれた私たちは大人になれないと言われ、経過観察の意味もあったのでしょうが、東京の施設に集められ治療や訓練を受けていました。苦しい時期を共に乗り越えた戦友のような存在です。
そのひとりが入院したと聞いて、お見舞いに行こうとしたことが帰郷のきっかけでもありました。ヘルニアの悪化で歩けなくなった友人の姿を見て、強い衝撃を受け言葉が出てきませんでした。足を使う私たちは、足が使えなくなると、自立した生活を送ることはできなくなります。これが自分たちの運命だと受け入れている友人のために、私は私のできることをしなくてはと思いました。なぜあらがおうとしなかったのだろうと自分に腹が立ちました。
サリドマイド被害者が多いドイツに行けば、なにか問題解決の手がかりがあるかもしれないと思い、気がつけばドイツ行きの飛行機の中でした。彼らは国や製薬会社と交渉し、十分に治療を受けるために年金の増額をし、病院にはサリドマイド外来が設置されるようになっていました。「新たに救済を受けたのではなく、自分たちの権利を行使しました。尊厳ある人生を取り戻したかった」と話してくれました。
私は日々の生活の中で、雨が降っても傘はさしません。傘はさせないので濡れて歩くだけです。ひとりで外食するときは、食べたいものを食べる習慣はありません。自分で食べられるものを食べています。洋服は着たい服ではなく、自分ひとりで着られる服を買います。
生まれたときは心臓が悪く、いつ死んでもおかしくないと言われました。 成長と共に体力がついて、今日があり明日がくるという人生を歩き出しました。そんなときに両親が離婚し家族はバラバラになり、あっという間にひとりぼっちになってしまいました。家族と暮らす経験がない人生でした。
また未知の身体で生まれるということは、想像以上に厄介なことでした。
いたるところに奇形や欠損があるために、病気をしても普通に治療ができません。例えば私の場合は顎に低形成があり、一本でも入れ歯は入れるのが難しいことがわかりました。ガンを患った時に、血管が細く造影剤や抗がん剤を使うことが難しかったのです。薬が作り出した未知の体は、人類にとって初めての体であり、これまで人類が蓄積してきた医療技術の、恩恵を授かることはできません。
ある朝、私は突然起き上がれなくなりました。これは何度か繰り返される症状です。首から背中にかけて激しい痛みに襲われ、呼吸をすることもやっとの状態になりました。夫に抱えられ病院に行き検査をしましたが、結局どこからくる痛みかわからず、治療はできないと湿布薬を渡され帰されました。一ヶ月ほど寝たきりになり、徐々に痛みがなくなり、ようやく元の生活に戻っていきました。どんな体なのか研究され尽くしていない私たちですので、今の状況では病気になっても治療方法は永遠に手に入りません。
誰にとっても完璧な人生はないし、嘆いたところで現実は変わるわけではないので、みな「苦しいのは自分だけではない」と言い聞かせ、スポーツを楽しめなくても、趣味を楽しめなくても、治療ができない体でも、不平不満も言わず今日まで来ました。諦めることを「よし」とする生き方は潔く、ある種の美しさがあります。私の幸せのありようを表してはいるように思うのです。自分が生きたいように生きてきたのかというとそうではありません。ときどき誰かに詫びたい気持ちになりました。いったい誰に何を詫びればいいのかわかりませんでしたが。
いま、私が思うことは私たちの問題は別の誰かの問題であり、特殊な状況にある自分たちが我慢さえすれば良い、ではないのだということです。この問題を改善することは、誰かの明日の生きるにつながっていると思います。


