国際サリドマイドシンポジウムでの増山ゆかり開会の挨拶

皆さん、おはようございます。

英語とドイツ語と日本語と、あと手話通訳が入っておりますので、今ちょっと非常にズームのつなぎ方が難しくて。何度もシュミレーションしてたんですけれども、ちょっと最初の間はバタバタすると思うんですが、そのあたりお許しいただければと思います。またあの、先ほどのQRコード読み込めたでしょうか。

読み込めてない方いらっしゃいますか。大丈夫ですか。もし読み込めてない方いらっしゃったら、スタッフやどなたかわかってそうな人に声をかけてください。そこを見ないと話がわからないっていうことになっているわけではないんですが、進行の手順をご案内させていただいています。知り合い同士の本当にうちわの、アットホームな集まりになりますので、あんまりきっちりとやろうと思わずに、失敗しても笑って許していただければというふうに思います。

では、国際サリドマイドシンポジウムのためのご挨拶をさせていただきます。ドイツではサリドマイドの当事者が自ら人生を語ることができます。自らがです。今までなかなか自分のことを、言っていなかったんですけれども、それをですね、声を上げるようにしました。それによって意思決定や社会の価値観を動かすきっかけになりました。当事者が声を上げ続けたことで、人として尊厳のある人生を送りたいというドイツのサリドマイドの人たちの思いに社会が共感し、それで社会を動かしてきました。当事者からすると、非常にその時には、人生の中で理不尽だったり、ものすごく、本来なくていいような苦しみをたくさん受けるような人生でもありました。しかし、彼らは制度を変える。つまり自分がちゃんと、尊厳のある人生を歩めるよう頑張るんだっていう気持ちをみんなで一つにして、社会を変えていく後押しにしていきました。

正直、日本とドイツでは、言葉だけじゃなくて、文化やその国の仕組みも全く違うわけです。ドイツがやったことを日本がやれば日本変われるのかっていうのは、そんなことはありません。そんなことを考えてもいません。ただ今、私たちがこの国際シンポジウムで、自分たちのことを発信していきたいっていうのは、やはりドイツの方が自分の人生をどう考えて、どの行動をして、それでどのような生き方が自分のあるべき姿なんだっていうことに、どう向き合っていったのかっていうことを知ることが、とても重要だと思いました。

私は今まで幸せに、もし自分が幸せであれば、もうそれで自分はサリドマイドであることにリベンジできたと思ってたんです。ところが、実際にドイツの人の姿を見て、もちろん人として幸せになるってことは大事だけれども、それと同じぐらい私の人生は尊厳のある人生だったのかと。人としてきちんと人権を行使できた人生だったのかっていうことが非常に大事なものだと思いました。

なぜなら私たちが歩く道は、やがて誰かの行く道でしたし、私たちが我慢すれば、やがて誰かの我慢につながっているからです。ぜひ今日は時間も長いですし、通訳や手話通訳で、時々止めたりしなきゃいけない時もあるかもしれないんですが、ぜひぜひ皆さんで、社会が、私たちがどういう人生を選びたいかっていうことを考える時間でもあってほしいし、社会が、つまりここに参加されている皆さんが、社会が、需要が、どうこの問題を捉えるべきなのかってことを、ぜひ考えていただく機会にしていただければと思います。

どうもありがとうございました。

前日のミーティングにおいて台湾からいらしたワンさんの発言

皆さん、今日はお招きいただきありがとうございます。TJ ワンと申します。

皆さん、ちょっと信じられないかと思いますが長い間、私の中でサリドマイドっていうものは存在していませんでした。サリドマイドの被害者でありながら。

1960年生まれです。自分が被害者であることに気づくのに十四、五年かかりました。それは母から「あなたは被害者なんだよ」と言われて初めて気がつきました。

母は私を身籠った時に何か間違ったことをしでかしたのではないかと考えていたそうです。その頃、鶏小屋を作り鶏を飼っていたのですが、その時に何か悪いものが取り憑いたのではないか。だから鳥の足のような短い手で生まれてきてしまったのではないかと。

74年に日本で製薬会社と被害者と和解ができて、その時に台湾から議員が日本を訪れました。その議員は医者でもあったんです。医師会の代表でもあった方でした。

そのため、その人は台湾に戻って、緊急な議会招集をしました。4人のメンバーで、大日本製薬とも協議を始めた。

当時、台湾は戒厳令下にありました。

ですので、消費者保護法的なものが、とても制限された状況でした。一般市民が、裁判に訴えるというようなことができない状況でした。和解に関する交渉は一年かからずに終わりました。

当時サリドマイドのエキスパートとされていた西ドイツのランス医師が台湾を訪れました。当時、私は15歳ぐらいで、医療施設から母に連絡が入りました。

先ほどクラウスさんがおっしゃったような、同じような経験をしています。みんなの前で洋服を脱がされるというような体験です。その日そういう検査を受けたのは4人いました。私だけがサリドマイドの被害者として認定を受けることができました。そののち、すごい数のフラッシュライトがたかれて写真を撮られた記憶があります。

そのあと50年ほどはそんなことを忘れていました。ところがこの三年ほど前から自分が被害者なんだと思い出しました。

サリドマイド被害者の方に会ったのは、今回が2度目なんです。先月、ワシントン D.C.でアメリカの被害者の方に会ったのが初めてで、今日が2回目です。だからずっと普通の人のように生きてきたんです。

YouTubeに流されたNHKの番組でゆかりさんが西ドイツを訪れたのを見て、コンタクトをして、それでこういうふうに今回参加することができました。ありがとうございます。

22歳で台湾のジュニアカレッジを卒業したあと、アメリカに留学生として渡りました。

皆さん同じような経験があるかと思いますが、22歳まで台湾では、からかわれたり、いじめられたり、そういう経験があります。そんな中で、書くことやタイプすること、自転車に乗ったり、泳いだりすることを身につけました。

卓球もしました。USオープンにも出場しました。障害者用の大会でしたけど。たいていの人は私に卓球で勝つことはできません。

ビリヤードもしましたけど、誰も私に勝てないので一人でやっていました。

アメリカに渡ったら、からかわれたり、差別的な扱いを受けたりしなくなりました。

アメリカで勉強して、学士、修士、博士まで勉強ができました。

30年間いくつかの大学で教鞭を取ってきました。そして3年前に退職をいたしました。イリノイ州のガバナーズ州立大学で名誉教授を拝命されております。

だからサリドマイドの話は自分にとってとても些細な問題でした。でも台湾に帰ってから、この問題が自分にまた戻ってきました。

22歳の頃、台湾で運転免許を取ろうと思いました。断られました。他の人に運転を代わってもらいなさいと言われました。ところがアメリカでは7日しかかからないで運転免許を取ることができました。

ですので、3年前、台湾に帰ったときにはアメリカの運転免許証を切り替えるという形で、台湾で免許を取ることができました。でも切り替えの際に台湾の政府から条件をつけられました。でも、私は普通の人が運転する車を制限なしに運転してきました。だから運転できるのはオートマ車だけだという制限をかけられることに一時間ほど抵抗しました。

アメリカと比べると台湾っていうのは日本と一緒で道も狭いですし、運転の条件っていうか、コンディションは変わってくるわけですけれども、今3年ほど運転していますが、問題なく運転できています。

そんなことがきっかけで台湾では面倒だなと思い出しました。

医療保険に入ろうと思っても断られます。生命保険も断られました。なぜならサリドマイドについての知識がないからです。だからこそ、社会にサリドマイドをわかってもらう必要があると感じています。

ドイツや日本と異なり、台湾では被害者がとても少ないので少数の人しかサリドマイドを知りません。

医療関係のプロの方ですら、あまりわかっていないというのが実情です。

ですから、今回の機会を利用して、ゆかりさんや日本やドイツの組織から学び、その内容を台湾に持ち帰ることができたらと思っています。NHKからの協力もいただけたらと思っています。

なぜならこのイベントは大切なものだからです。人々が知るべき歴史的医療イベントです。未来において二度と同じような過ちを繰り返さないように。社会は知るべきです。政府,そして責任がある製薬会社たちが立ち上がって責任を取っていくべきです。

前日のミーティングにおいてドイツからいらしたクラウス・ミシェルスさんの挨拶

今日はここに来ることができて大変うれしく思います。私の名前はクラウス・ミシェルスです。いつもアシストしてくれるので、息子を連れてきました。

息子さんの発言
私の名前はチム・ダビッド・ミシェルスです。いつも父をサポートしています。やっぱり日常生活の中でできないことがあるので、そのときは自分がやります。

クラウスさんの発言
ゆかりさんと初めて会ったのは数年前のことです。でもあれからずっと連絡を取ったり、意見交換をしてきました。

ゆかりさんにはぜひ日本に来てみたらと言われて、来ちゃいました。明日はシンポジウムがあるんですけれども、それを機に皆さんと会話したり、意見交換したり、自分たちの体験について語り合えたらなと思います。そして私たちドイツ側が例えばサポートできることがあったら、それもぜひしたいなと思っています。

自分が生まれたのが1961年になります。ドイツでサリドマイドのスキャンダルがあったのが1958年から62年までの間です。先ほど裁判の話があったんですけど、ドイツの場合ですと、1972年に裁判が終わりまして、和解に終わったんですけど、その時はドイツ政府とグリューネンタール財団と被害者の間の和解となりました。

その裁判のときに、被害にあった子どもたちの親御さん同士が会ったんです。そこで親側が、子どものために何ができるのか、みんなで話し合った方がいいのではないかっていう話になりました。それがきっかけになって、いろんな被害者団体が出来上がっていて、地域ベース、町ベース、地域ベース、郡ベースなどで、最終的にその連邦被害者協会っていうのができました。そこの連携が非常にうまくいっていて、要するに地域レベルからの情報が上がることもあれば、あるいは連邦、国ベースなど、国家の方で集めた情報が地域に降りてくるっていうようなことになっていて、具体的にどこでどのような助けとかが必要なのかがわかるようになったんです。

その後に国が作ったサリドマイド財団っていうのがありますし、あと会社ですね、グリューネンタールという会社が作った財団があるんですけど、とにかくこの財団が何で私たちにとって大事かって言いますと、そこからその障害年金がもらえるからです。

自分の障害が,どの程度のものなのかをとにかく分類しなければならなかったんです。どの程度の被害を負っているのかっていうので。自分が覚えているのは、一般の子供が子供の時にできることでできないことは何かと、とにかくやたらとテストされました。例えば木の板みたいなものがありまして、その上に鉄の細かい駒があって、それを自分の手でどのくらい動かされるものなのか試されました。

そういうテストをたくさんおこなった結果、自分の障害の程度とか、あと自分の体の不自由さはどれくらいなのかっていうのが決まって、それによって補償の金額が決まっていったんです。

またテストの話なんですけど、様々なテストがある中で、一つだけ。

ちょっとトラウマ体験として記憶にどうしても残っているものがありまして、それが自分の地元からちょっと離れた都会に行ったんですね。(町の名は聞き取れず) そのときも母と一緒でした。そのテストでいろんなものを測られたんです。膝の反応だったり、手のサイズ、レントゲンとか、母の役割っていうのが、いつも私の服を脱がす手伝いをすることだったんです。とにかくその日も母と一緒に病院に行ったんですけど、その時医師が、なぜか母は外で待ってて、2人きりになりたいと。

ただ、服だけは脱がせてくださいと母に頼んだんです。なので、服を全部脱いで、パンツ一丁になったんです。その時、自分がまだすごく若かったんですけど、その医師と二人きりになって、その医師の部屋から二人で出て行ったんです。医師とともにたくさんの部屋を通って、メインの廊下ではなくて、部屋と部屋の間の細い廊下を通って行ったら、たどり着いたのが講堂みたいなところです。とても大きな部屋。そこにたくさんの医師がいたんです。その医師たちが私をみんなで見るんです。どういう感じの体なのかを見て、最終的にパンツ一丁だったんですが、それも脱がされてしまって、みんなの前で裸にされて、ただただ見られていただけっていう体験をしてしまったんです。泣きました。(言葉に詰まる) 今は64歳なんですけど、その時のトラウマが忘れられませんし、正直サリドマイド被害者であることが今でも辛い時はたくさんあります。

セラピーも受けています。もちろんサリドマイドは、体験したことの一部でしかなく、自分のすべてではないんですけれども、それでもやっぱり自分のある部分であって、それで生きるのがしんどい時はたくさんあります。ただ、結果としては生きていて良かったと思っていますし、息子がいてよかったと思っていますし、あと、こうしてちょっとはゆかりさんのサポートもできるかもしれないということで、それは非常にうれしくは思っています。

一方で、自分の人生の中でいろんなことを成し遂げました。例えば子供の時は自転車に乗ったり、スケートをしたり、あと息子とスキーを滑ったりとか、いろんなことを結局体験しました。自分の趣味の一つが、例えばチューバっていう楽器があるんですけど、チューバの演奏で、たくさんの友達ができましたし、あと凧を上げることが趣味の一つで、すごく今楽しくて、写真の見せ合いをしたりします。あとチェスの大会にずっと長年参加してきて、ずっと割といいポジションで戦ってきたんです。とにかく自分ができることを見せることで、一つの満足を得ることはあったんです。

仕事は階段を設計していました。最初は手でパースなどを書いてたんですけど、最近はパソコンの技術が出てきて、そこで設計したりとか、いろんなリストのデータ入力をするのが私にとってすごく楽しかったんです。自分にもやっぱり価値があるんだと、ちゃんと仕事ができると、そういう実感が湧いていました。ただ、体的に限界が来たのが25年前のことで、結局そこで仕事を辞めたんですね。辞めざるを得なかったっていうか。ただまあ、そのあとでもやっぱり休むことなく、別に何ができるのか探して、いろんなボランティアをやるようになりました。例えばアルコール中毒者とか薬物中毒者のサポートとか支援っていうようなことを最初はやりました。

のちに地域ベースのサリドマイド被害者の会のボランティアをやって、今だともう連邦の組織でやっています。国ベースのサリドマイド被害者協会で活動をしています。

先ほど、ゆかりさんの話の中で、日本にもドイツみたいなリハセンターができたらいいのになって話だったと思うんですけど。確かに、このセンターにはたくさんお世話になっています。ドイツには10のセンターがあります。アイディアそのものは非常に自分もいいと思っていて、センターによってちょっと良し悪しはあるかなっていう印象なんですけど、ただお気に入りの施設もありまして、ゆかりさんが実際に訪れたニューン・ブリッジ(ノイブルクのことか?)のは自分のお気に入りのところになっています。そこでいろんな検査を受けることができて、例えば、自分は心臓が弱くて検査していたら、どうもその血流がうまくいってなくて、流れる60%がまた元に戻るっていうような状態なんです。それが検査しないと気づかなかったかもしれない一つの点です。昔ハーフマラソン走ってたのに全然気づかなかったんです。

そういうように、検査してみないと分からないことがたくさんありまして、すごくこのセンターは有意義なものだと思っています。例えば、4年前にヘルニアになってしまいまして、いい医師、自分を見てくれるような医師がいないかということで、その被害者協会の友達のクラウリアに電話してみたら、実際にいい医師を紹介してくれて、とても遠いところにいたんですけど、そこまで行って手術してもらって治したんですね。その時まで自分はずっと車椅子生活だったんですけど、今は立って歩くことができます。ただまぁちょっと歳なので、今だと200mだったら痛みなしに歩けるんですけど、それ以上たくさん歩くとやっぱり痛みが出てくるので、ゆかりさんがわざわざ今回自分のために車椅子を用意してくださったのは、本当にありがたいです。助かっています。

明日はシンポジウムなんですけれども、今回の来日にあたって持ってきたものがありまして、ちょっとしたアイディアですね。自分が考えたものなんですけど、紙の袋があります。これが袋ですね。その中にキャンドルやティーライトを入れて灯します。紙袋にはステッカーを貼ってそれがどういう意味を持ってるかっていうと、ちょっとしたなんか、なんですかね、デモなのかな。それぞれにパーツに意味がありまして、まずは袋っていうのがみんなでアイデアを集めるためのものですね。この中に可能性とかアイデアとか皆さんの思いをたくさん入れたい。火を入れると危ないかもしれないけど。

いいんじゃないですかね。というのが袋ですね。このキャンドル、ティーライトっていうのがドイツの習慣でもあって、日本でもそういうようなものがあると聞いたんですけど、この年まで生きてこれなかった人たちですね。被害者を偲ぶためのものにしたいなと思うんですね。我々はその分生きているっていうので、ぜひそのキャンドルも入れたいと。皆さんのアイデアを袋の中にも入れて、で、さらにこういう、なんか日本だとあまり声を上げてデモをやることはしないと聞いてるので、静かだけどものすごくインパクトのある静けさで、自分はアピールしたいなっていうことで、ステッカーが貼ってあるんですけど、これはゆかりさんになっていて、メッセージは3か国語で書いてあるんです。尊厳を持って生きるとか。なんかそういうようなことを書いてアピールするのです。尊厳ある生活。じゃあ、これを皆さんに回しましょう。

参加者からの声
それは100ショップでLEDのライトが売ってるから、それを入れたら,安全かもしれません。

ぜひそれにしましょうか。皆様に聞きたいのは、これ今見ててなんとなく意味わかりますかこの自分の説明、なんとなく伝わるんでしょうか。

私は日本人ではないですし、もちろん日本の文化をネットで読んだものでしか理解してないので、これでみんな何か伝わるのかなとちょっと心配なんですけど、とにかく自分の思いとしては、皆さんの努力ですよね。皆さんの頑張りにはちょっと火がついてほしいなっていうのがあるんです。これからは。

明日のシンポジウムでは、ゆかりさんのアイディアをぜひ論述したいと思っていますし、皆さんがそこに参加してくれれば僕もうれしいです。

国際サリドマイドシンポジウム前日のミーティングにおいて増山ゆかりの挨拶

国際サリドマイドシンポジウムにどうたどり着いたのかという話をさせていただくと、もうちょうど一年以上前になるんですが、私は北海道がふるさとなんですけれども、そこに私の友達を訪ねて行ったところ、非常にその皆さん体調が悪かったんですね。

それで一緒に病院行こうとか、どこが具合悪いのとか、まあいろいろ、何とかしてあげたいと思って、いろんな話をしてみたんですが、その方、私の本当に幼い頃からの友達なんですけれども、なんて言ったかっていうと、「いいの、私生きていたくなんかないから」って言ったんですね。私すごく驚いて、いやこれはもう大変なことが起きていると。これは何とかしなきゃって思って、故郷なのでまた別の友達のところを訪ねていって、とにかく応援してもらって、なんとかその友達を病院に連れて行くっていうことを考えてたんです。そしたら、その友達も同じようなことを言うんですね。生きている方が辛いって言ったんです、その人も。

今度は、とにかく私一人ではどうすることもできないと思って、誰かに助けを求めなきゃいけないって思って、そこでもう一人友達を訪ねていって相談しようと。その人は、あとでビデオにも出てきますけど、市川さんとおっしゃるんですね。

市川さんは糖尿病を患っていて、今、透析を受けています。透析するためのシャントという血を採取する場所が透析の継続によって使えなくなっていくんです。市川さんは足の太ももからやってらっしゃるんですね。

それで、ご存知かもしれないんですが、サリドマイドは糖尿病率が非常に高いんです。彼もその透析のために人工血管を足に入れるんですけれども、それが私たち血管も弱いっていうことで、その人工血管を入れると、人工血管に負けてしまって出血をしてしまうんですね。私なんとかしてあげたくて、その友達の相談をしたいんだけれども、その人はお医者さんに、もう次は難しいって言われてるんです。つまり、シャントを取り替えていかなきゃいけないのに次のシャントができてから何年持つかはもう人によって違うんですね。で、まあ長い人で十年以上短かったら5 6年でシャントってダメになってしまいます。

でも私、とにかくもうこれは聞いてしまった責任があるので、とにかく北海道から帰ってきて、ガーッともうとにかく情報を集めて、もう1回北海道に戻って、何かみんなでできないだろうかと。何かそのチームというかね、集まりをつくって、こう知恵を出し合ってね、できないかとか、まあ、いろいろやったんですけど。まあみんなそんなにエネルギー残ってないって言うんですね。そこで今もう私が立ち上がって何か行動を起こさないと間違いなく間に合わないっていうのだけは感じてました。

そこでネット上に呼びかけて、とにかくなにやるも決まっていないし、何ができるもわかんないけど、とにかく集まってみんなで知恵を絞ろうといったのがこのワンチームでした。

私もう1回北海道に戻った時に、市川さんに聞くんです。私、なんとかセカンドオピニオンとれるように、いい先生見つけるからって。そしたら彼、なんて言ったと思います。彼は、そんなことしなくていいっていうんです。どうしてかっていうと、私に「透析ってどれだけ辛いかお前は知ってるのか」って聞かれました。「中にはね、まだ続けられるのに、もうやめちゃう人もいるんだよ」って言うんですね。

それでも私あきらめられなくて、いざ本当に彼がまたこのシャントが使えないって言われたときまで待っていれば。もうその時には間に合わないので、なんとかしようと思って。いろんな病院にも当たって。気がついたのは、もう私ができる、一人でできることは本当に限られていると思いました。

サリドマイドの人は外見の奇形がどうしても目につくかもしれないんですが、実際には体の中にもいろんな奇形があるので、こうやって何かちょっと命に関わるような、あるいはちょっと重い病気になった時に、医療の恩恵を受けられないんです。つまり、体の作りが違うので、手術のリスクがものすごく高いんです。それで、いろんな情報を集めているところで、実はドイツにはサリドマイルの人のための外来があるということを聞きました。

そこで私も本当にせっかちなのかもしれないんですけども、そういった時からもうすぐドイツ行きのチケットを手配して、すぐに飛行機に乗る準備をして、もう思い立ってから1か月後には飛行機の中でした。

今まで私は結構いろんな苦労をしたんです。一言で言うと、例えば私、親と一緒に暮らしたことは一度もないんです。ずっと施設を転々としながら大人になりました。自分にずっと課していたのは、「生まれてよかったと思えるような人生にしたい」っていうのが私の最大の人生でやりたいと思ってたことでした。そう思ってたのに、そこに今、あとでご紹介させていただきますけれども、クラウスさんが私に、クラウスさんはどうしてこんなに頑張って,いろんな自分の人生を戦うのも大変だったのに、サリドマイドの補償問題でもすごく頑張ってきて、くじけなかったのですか、なんで頑張れたんですかって聞きました。そしたら、クラウスさん、私は自分の人生を歩きたかったと。

自分が、ちゃんと人として、人権をちゃんと行使する人生を選びたかったっておっしゃったんです。それ聞いて私、幸せになるだけじゃダメなんだと思いました。

私が幸せになったかどうかとは別に、私は自分がちゃんと人として、日本の法律にある、人権に守られた人生だったかどうかっていうことが、すごく大事なんだっていうことを思いました。

それでドイツから戻ってくる飛行機の中で、よしもう私は、今62なんですが、「私あと何年時間があるかわからないけれども、尊厳のある自分の人生を選ぶというふうに決めたんです」。でも私だけではなくて、みんな仲間も、そうであってほしいと思いました。なのに今、本当に、サリドマイドってもう忘れられていて、昔の話だよねって、こう言う人、すごく多いんです。

私が決心したのは何かって言ったら、「私の残された時間の中で絶対に自分たちは本来の自分たちの尊厳のある人生を取り戻す」ということ。それは自分のためでもあり、仲間のためでもあるんです。必ず私たちが歩いた道って、誰かがいずれ歩く道なんです。誰かが私たちが我慢すれば、誰かもまた我慢して歩かなきゃいけなくなる道なんですね。

だから私はもう被害者ではなくて、自らが自分の人生を選んで歩く人でありたいと思いました。このワンチームを立ち上げた時に、具体的に、こんなことを達成したいって言っているものがありますので、それを紹介して最後にしたいと思います。

まず、私もそうですけど、具合が悪くて病院に行っても断られることがよくあるんです。「あなたの場合は、どんな体だかわからないから治療できない」って断られるので、断られないようにしたい。安心して治療が受けられる環境を作りたいっていうのがまず一つ目の目標です。

それから、日本のサリドマイドの人は皆さん、すごく体酷使して、何でも自分でできるようにしましょうって、こう言われながら今日まで来て、その結果、もうあちこちが痛くて、今までの生活を維持できないっていうことに苦しんでいらっしゃるんです。なので、二つ目の目標としては、体を酷使しないでも生きていけるような環境に整えていきたいということです。

それから今、みんな若い時は一緒にどっか出かけるとかいう機会があったけれども、今もうだいぶなくなって、結構音信不通の方もいらして、日本のサリドマイドって今255人とか、その前後です。これはあくまでも亡くなってるっていう確認が取れてない人も中にはいらっしゃるかもしれないのでこの数字です。だからもう残された時間を本当に有意義なものにしたいので3番目の目標はとにかくサリドマイド同士、あるいはその同じような境遇の人たちで手を取り合って、自分たちの気持ちを分かり合える、そういう仲間を募って親睦を深めていきたいっていうのが3つ目の目標です。

私たちの今、日本の場合は和解確認書っていうのが1974年に国と製薬会社と被害者の間で結ばれました。裁判があって、その結果、和解をしたんです。私たちの今のいろんな、サリドマイド関係の仕組みっていうのは、その和解の時に決めたルールの中で動いているんです。1974年ではまだレントゲンぐらいしかないじゃないですか。今ならCTもありMRIもあり、あるいはもっといろんな研究技術も上がっている。60年前にわかっていたものよりも、ずっとどんな体になっているかっていうのを研究すればわかるようになってきたんです。それがちゃんと受けられるようにしたい。そして最後はその病気になってから治療を受けるんではなくて、その前にできるだけ何か手当てができるような体制づくりをする。例えば大学にサリドマイド専門の研究所、健康研究所を置いてもらうとか。個人の力ではどうすることもできないことがたくさんあります。

また、その当時にはわからなかったことも、きちんと手当てしてもらうっていうのは、当たり前の話なんだと思うんです。ですので、四番目のものとしては、必ずしも金銭ということを言ってるんではないんですが、きちんと自分たちが、例えばあの年をとっていった時に、ちゃんと暮らせるように、そういう設備のある施設とか家とか、そういう環境を整えてほしい。ざっくりした言い方ですけど、そういう保障の獲得していきたい。きちんと手当てしてもらえるような、そういう環境を作っていきたいっていうのが4番目の私の目標です。

発症当時は、まだどんな状況かわからない中で和解しました、でも、年月を経ていま必要なことはこんなことだろうっていうことで、この4つの項目を考えました。

社会に対して自分たちが何を求めているのかっていうことを伝えていくことは大事で、このワンチームの仕事だと思っているんですが、それと同時に私たち自身がやっぱり改めて,こういう大きな事件の当事者になった自分が、どう自分の人生を捉えていくのか。あるいはそれをどう社会の中に還元していくのかっていうことを、考えるいい機会でもあるというふうに思っています。

国際サリドマイドシンポジウムのご挨拶

ドイツではサリドマイドの当事者が自らの人生を語ることで、政策決定や社会の価値観を動かすきっかけにもなってきました。当事者が声を上げ続けたことで、人として尊厳ある人生を送りたいという想いに多くの人々は共感しました。

ときには理不尽や苦しみの人生を歩かざるを得なかったことに涙し、彼らのために制度改正を一丸となり後押しをしました。日本とドイツでは文化も国の仕組みも違います。ドイツの方がこの国際サリドマイドシンポジウムで発言することで、日本の私たちの前に道が開くわけではありません。

それでも私たちが自分の人生をどう捉え、私たちの人生のあるべき姿に思いを馳せ、どのような生き方を望むのか向き合うべきだと思います。いま、私たちは私たちの努力で幸せであったとしても、私たちの人生が尊厳のあるものかを問わなくてはなりません。私たちの道は誰かが歩くが、誰かが歩く道につながっています。どのような人生であるべきか捉えることで、今後の社会のありようも含め、私たちはどう生きるか考えたいと思います。

増山ゆかり

スピーチダイジェスト

中野 寿子/なかの ひさこ/日本語

当時は義務教育を免除するということがあって、私自身小学校も中学校も行っていません。ですので、たぶんいまだに小学校の低学年がやるような算数もできないと思いますね。で、私が15歳になったとき、普通はもう中学校3年生ぐらいで義務教育が終わる歳ですけど、 その頃に訪問教育をしましょうということいなりました。山口市内にある日赤病院の中の院内学級で教えていらっしゃる先生が 1週間の空いている時間を私の自宅まで来てマンツーマンで教えられることだけをしましょう。 小学校をすっ飛ばして中学校の訪問教育を15歳から受けるようになったんですね。

Hisako Nakano/English

At that time, there was a system that allowed people to be exempted from compulsory education, so I myself did not attend either elementary school or junior high school. That’s why I think I probably still can’t do even the basic arithmetic that lower-grade elementary students learn. 

When I turned fifteen — normally the age when a student finishes compulsory education after the third year of junior high school — it was decided that I should receive home-visit education.A teacher who taught at the school within the Japanese Red Cross Hospital in Yamaguchi City would come to my home during his free time once a week and give me one-on-one lessons. I skipped elementary school altogether and began receiving junior-high-level home-visit education from the age of fifteen.

Hisako Nakano/ German

Damals gab es die Möglichkeit, von der Schulpflicht befreit zu werden, und deshalb habe ich selbst weder die Grundschule noch die Mittelschule besucht. Daher denke ich, dass ich wahrscheinlich bis heute nicht einmal die einfache Mathematik beherrsche, die Kinder in den ersten Grundschuljahren lernen.

Als ich 15 Jahre alt wurde – also in dem Alter, in dem man normalerweise die neunte Klasse abschließt und die Schulpflicht endet – wurde beschlossen, dass ich Hausunterricht bekommen sollte.

Ein Lehrer, der an der Schulklasse im Rotkreuz-Krankenhaus in der Stadt Yamaguchi unterrichtete, kam einmal pro Woche in seiner freien Zeit zu mir nach Hause, um mir im Einzelunterricht nur das beizubringen, was möglich war. So begann ich mit 15 Jahren, ohne je die Grundschule besucht zu haben, den Hausunterricht auf Mittelschulniveau zu erhalten.

佐藤 順子/さとう じゅんこ/日本語

最初から私は親がいないと知らされていたのが、 突然、親がいましたよって言われて、「ああ、そうですか」とはいかなったですよ。これは、昌也くんもそうだったと思うんですけど。 かといって、親を憎んでもいなかったですけど、「ひとりぼっちなんだ、ずっとひとりぼっちなんだ」という感覚でいたので、かえって気が強い人間になったかもしれませんね。

JUNKO SATO/English

From the beginning, I had been told that I didn’t have any parents.

Then suddenly, I was told, “Actually, you do have parents,” and of course, I couldn’t just say, “Oh, I see,” as if it were nothing.

I think it was the same for Masaya-kun as well.

That said, I never hated my parents.

But because I always felt, “I’m all alone — I’ve always been alone,” maybe that’s why I became a strong-willed person.

JUNKO SATO/ German

Von Anfang an wurde mir gesagt, dass ich keine Eltern habe.

Dann hieß es plötzlich: „Eigentlich hast du doch Eltern“, und natürlich konnte ich da nicht einfach sagen: „Ach so, verstehe“, als wäre es nichts.

Ich denke, bei Masaya-kun war es genauso.

Das heißt aber nicht, dass ich meine Eltern gehasst habe.

Aber weil ich immer das Gefühl hatte: „Ich bin ganz allein – ich war schon immer allein“, bin ich vielleicht ein willensstarker Mensch geworden.

河口 智彦/かわぐち としひこ/日本語

私自身は、はっきりとした記憶ないのですが、5歳くらいに自分の耳がないことに気がつきました。

母の話を聞くと私は母の耳を握って耳がほしいというような動作をした

そうです。

耳が無いため、周りの人から見えないように母手作りの耳のカバーを細で結び覆っていました。

自宅前の道は、通学路だったので行き交う小学生達に「あれはなんだ!」と馬鹿にされたり笑われたりして悔しい思いが積み重なっていったのを覚えています。

TOSHIHIKO KAWAGUCHI/English

I don’t have a clear memory of it myself, but I realized that I didn’t have ears when I was about five years old.

According to my mother, I used to grab her ears and make gestures as if to say that I wanted ears of my own.

Because I had no ears, my mother made handmade ear covers for me, tying them on with strings so that other people couldn’t see.

The road in front of our house was a route children used to walk to school, and I remember how painful it was when they laughed at me or made fun of me, shouting, “What’s that?” as they passed by.

TOSHIHIKO KAWAGUCHI/ German

Ich selbst habe keine klare Erinnerung daran, aber ich bemerkte etwa im Alter von fünf Jahren, dass ich keine Ohren hatte.

Laut meiner Mutter griff ich oft nach ihren Ohren und machte Gesten, als wollte ich sagen, dass ich auch eigene Ohren haben möchte.

Da ich keine Ohren hatte, nähte meine Mutter mir handgemachte Ohrabdeckungen, die sie mit Schnüren festband, damit andere sie nicht sehen konnten.

Die Straße vor unserem Haus war ein Schulweg, und ich erinnere mich, wie schmerzhaft es war, wenn die Schulkinder an mir vorbeigingen, über mich lachten oder riefen: „Was ist das denn?“

市川 昌也/いちかわ まさや/日本語

昌也:結局サリドマイドになったことで 例えば自分の家族がバラけたし、 で、多分普通に生きていけば味わうまで良かったような その苦しみを味わってきたわけじゃない、結果的にね。 で、そのことはやっぱり理不尽だと思うし、 で、それをやった奴らが、のんのんと片一方で生きているわけだよ。 で、知らん顔。 だからそのことに対しては、何なんだって感じだよね。 

ゆかり:何を支えに頑張りました? 最初は憎しみだよね。

昌也:うん。 で、いつか何度も仕返ししてやるっていう。

ICHIKAWA MASAYA/English

Masaya: In the end, because I became a thalidomide victim, my family was torn apart. And I’ve gone through kinds of suffering that, if I had lived an ordinary life, I probably never would have experienced. That’s just the reality. I still think it’s totally unjust. And the people who caused all this— they’re living comfortably on the other side, acting like nothing happened. That really makes me think, “What the hell is that?”

Yukari: What kept you going? What gave you strength?

Masaya: At first, it was hatred. Yeah… I thought, “Someday, I’ll get back at them—again and again.

MASAYA ICHIKAWA/ German

Masaya: Letztendlich ist es so, dass durch das Thalidomid mein Leben völlig auseinandergebrochen ist – zum Beispiel meine Familie.

Ich musste ein Leid erfahren, das ich wahrscheinlich nie erlebt hätte, wenn ich ein „normales“ Leben hätte führen können.

Das empfinde ich als zutiefst ungerecht.

Und die, die das angerichtet haben, leben auf der anderen Seite ganz ruhig weiter – so, als ginge sie das alles nichts an.

Das macht mich wirklich wütend.

Yukari: Was hat dich damals getragen, was hat dir Kraft gegeben?

Masaya: Am Anfang war es Hass.

Und ich dachte immer wieder: Eines Tages werde ich mich rächen.

ドイツからの参加者イルロンカ・ステブリッツさんからのメッセージ

親愛なる日本のサリドマイド被害者の皆さま

そして関心をお持ちの皆さまへ

私の名前はイルロンカ・ステブリッツ(Ilonka Stebritz)です。1961年12月にドイツで生まれました。サリドマイド(ドイツではサリドマイドをコンテルガンと呼ぶ、以下名称をサリドマイドに統一)障害を持つ約5,000人の子供たちの一人です。私が生まれたとき、母は17歳でした。

4歳になるまで、私は何度もサリドマイド病棟に入院させられました。そこでは、足を動かすことを学ぶことになり、私に合った補助器具が開発・調整され、将来への準備も整えられました。

5歳から地元の幼稚園に通い、6歳で地元の小学校に入学し、10歳からは隣町の総合学校に通いました。

学校卒業後、行政事務職員(Verwaltungsfachangestellte)として研修を受け、2005年までこの職業に従事しました。2005年、サリドマイド感染による二次的被害のため、*障害年金(Erwerbsminderungsrente)を申請せざるを得なくなりました。

*ドイツの公的年金制度(Deutsche Rentenversicherung)の一部で、病気や障害などの理由で通常の労働ができなくなった人に支給される年金。つまり、老齢年金(定年後にもらう年金)ではなく、働けなくなった時点で支給される生活保障の一種。

2005年に障害年金を受給した後、私はサリドマイドをめぐる物語を深く掘り下げました。そして、グリュネンタール社(サリドマイドを開発した製薬会社)が胎児に危害が及んだという情報を得た時点で、妊娠中の動物を対象とした重要な試験を実施していれば、私はコンテルガンの被害を受けずに生まれていたかもしれないことに気づきました。

調査を進める中で、私は同じサリドマイド症患者たちの生活環境が耐え難く、ひどく劣悪なものであることをますます知るようになりました。彼らはサリドマイドによる被害のために補聴器や車椅子といった補助器具に頼らざるを得ませんでしたが、本来彼らにとって当然であるはずのケアを受けられなかったり、あるいは渋々受けさせてもらったりしていました。

リハビリやマッサージなども同様で、必要な量・期間の支援を受けられなかった人が多くいました。。

重度の障害を持つ人の中には、家庭環境も過酷な人がいます。冬には、雪かきをしてくれる人が来ないと家を出られなかったり、家族から「外に出るな」と言われ、家の中に閉じこもるよう強いられた人もいました。家で電球が切れると、誰かが来て交換してくれるまで待たなければならなかった人もいます。

これらすべては、彼女たちが胎児期にサリドマイドを投与されたせいです。私は何かを変えなければならないと思いました。彼女たちも、同年代の人たちと同じように、旅行したり、友人と夕食に出かけたり、映画を見たり、あるいは何か楽しいことをしたりできる人生を送る機会を与えられるべきだと。だからこそ、私は可能な限り、仲間たちの生活をより良くするための活動に関わることを決意しました。

私が非常に懸念していたもう一つの問題は、老後の保障でした。

私自身、サリドマイドによる障害のため、収入能力が減額された年金を受給するようになりました。その結果、年金保険制度に重要な拠出を行うことができなくなり、年金もそれに応じて低額でした。サリドマイド障害の影響を受けた他の人々は、サリドマイド障害のために全く働くことができず、老後の保障が全くない人もいました。しかし、年齢を重ねるにつれて、支援の必要性が増し、それに伴う費用も高くなることは明らかです。私たちのわずかな年金では、それに対処することは不可能でしょう。ですから、私は様々な理由から、この状況を変えるために集中的に取り組むことが重要だと考えました。私たちは、生涯をかけて働いていた場合と同じ立場に立たなければなりません。

サリドマイド財団の私の知り合いもほとんどは、給付金の額を早急に上げる必要があると考えていました。長年にわたり、給付金は増額されず、あるいは十分な増額もされず、もはや私たちが子供時代に感じていた給付金とは見合うものではありませんでした。

私たちが子供だった頃、財団の給付金は女性の月給や給与とほぼ同額でした。しかし、2007年と2008年には、標準的な生活保護受給額とほぼ同額になりました。

財団の給付金は補償関連の性質も持ち、必ずしも車椅子や補聴器などの不利益に対する補償金を賄うことを意図しているわけではなく、むしろ日常生活における幸福と、サリドマイド被害にもかかわらず社会生活に参加する能力に貢献することを目的としています。

しかし現実には、被害を受けた人の中には、サリドマイド年金から補装具やマッサージの費用を賄わなければならない人もいました。

長年にわたり浮上してきたもう一つの問題は、眼鏡や入れ歯の提供です。サリドマイド障害のある方には、従来の入れ歯を提供することができないことは明らかでした。なぜなら、彼らは日常生活でも歯を使うからです。ボトルを開けたり、ブラインドを上げたり、時には歯で袋を挟んだりすることもあります。このような場合、すぐに外れてしまうような入れ歯はあまり役に立ちません。そのため、インプラントのようなしっかり固定できる歯が必要でした。眼鏡の提供はかつては健康保険組合の責任でしたが、その後完全に廃止されたため、今では誰もが自分で眼鏡を購入しなければなりません。私のように視力が低下した人は、非常に近いものを見るための眼鏡と、遠くにあるものを見るための眼鏡など、異なる眼鏡を必要とするため、残念ながら複数の眼鏡が必要になることがよくあります。また、健康保険が適用されなくなったため、費用が高額になることもあります。

私のように、財団の給付金の水準を早急に変更する必要があると考えていた被災者もいますが、何も変えられない、これは一度決定された問題だと考えていた被災者もいました。数ヶ月後、彼らの考えは誤りであることが証明されました。

サリドマイド被害者の様々なグループが長年にわたって行ってきた活動があります。

こうした活動だけでは目標達成には至りません。もっと多くの働きかけが必要でした。そして、これまで共に活動してきた他の被害者たちと同じことをしても無駄だと悟ったため、私はサリドマイド被害者連盟に協力を依頼しました。そこで私は、要求リスト作業部会、そして後に研究プロジェクト作業部会のリーダーを任されました。要求リスト作業部会では、サリドマイド被害者連盟加盟団体が提出した要求を、その根拠となる論拠と情報によってサポートしました。要求リスト作業部会の成果の一つは、要求を事実と科学に基づいて裏付けるためには、研究プロジェクトを立ち上げ、あるいは提案することが賢明であるという点でした。

この研究プロジェクトの結果は、政策立案者がサリドマイド被害者の生活状況のさらなる改善を決定するための基礎となりました。

人生を向上させる道のりは、時に困難で、悲しく、もどかしく、失望させられることもありました。しかし、それでもその道を歩み、目標に向かって努力し続ける価値はありました。

ウドさんのインタビュー

最初の頃は、何十年もの間、私たちはグリュネンタール社の門の前で必死になって座り込みをしたり、ローソクに火をつけたり慰霊を行うなど繰り返していました。しかし、目立った効果はありませんでした。2007年だったと思いますが、テレビ局はフィクションのドラマを作りました。私たちは一生に一度のチャンスを掴まなくてはならないと思いました。それをきっかけに何かを変えなければならないと、われわれは思っていました。他の国では国からの支援も充実していて、健康問題でもさまざまなサポートが行われていたことを知っていたからです。

当時は年金が低く、生活が厳しい人もいました。ドラマが放送されると、世間はドラマに注目、多くの人が視聴しました。過去の映像を使ったドキュメント番組も作られました。サリドマイド/コンテルガンが社会で話題になり、国は仕方なく、私たちに年金を2% 上乗せすると言ってきました。足りないと言ったら4%にすると言ってきました。それはわずか20ユーロだけでした。国との交渉には何か対策を考えなくてはいけない、どのような方法が良いのか、どのような形が望ましいのか考えた結果、NPOのようなものを作ると選挙が必要だったり、何かアクションを起こそうとすると、メンバーの同意がなければできないということで、かなり時間がかかることがわかりました。ことが進まないと市民運動のための団体を作ることにしました。これがInternational Contergan Thalidomide Alliance/ICTAです。2008年、ケルンで初めての集会を開きました。10人ほどが集まりました。ずっと犠牲者/被害者でいたいのかと問いかけました。


以上はドイツでインタビューした内容。

国際サリドマイドシンポジウムでこのビデオが流されたあと、ネットで繋いでインタビューした内容はこちら。