国際サリドマイドシンポジウムのご挨拶

ドイツではサリドマイドの当事者が自らの人生を語ることで、政策決定や社会の価値観を動かすきっかけにもなってきました。当事者が声を上げ続けたことで、人として尊厳ある人生を送りたいという想いに多くの人々は共感しました。

ときには理不尽や苦しみの人生を歩かざるを得なかったことに涙し、彼らのために制度改正を一丸となり後押しをしました。日本とドイツでは文化も国の仕組みも違います。ドイツの方がこの国際サリドマイドシンポジウムで発言することで、日本の私たちの前に道が開くわけではありません。

それでも私たちが自分の人生をどう捉え、私たちの人生のあるべき姿に思いを馳せ、どのような生き方を望むのか向き合うべきだと思います。いま、私たちは私たちの努力で幸せであったとしても、私たちの人生が尊厳のあるものかを問わなくてはなりません。私たちの道は誰かが歩くが、誰かが歩く道につながっています。どのような人生であるべきか捉えることで、今後の社会のありようも含め、私たちはどう生きるか考えたいと思います。

増山ゆかり

スピーチダイジェスト

中野 寿子/なかの ひさこ/日本語

当時は義務教育を免除するということがあって、私自身小学校も中学校も行っていません。ですので、たぶんいまだに小学校の低学年がやるような算数もできないと思いますね。で、私が15歳になったとき、普通はもう中学校3年生ぐらいで義務教育が終わる歳ですけど、 その頃に訪問教育をしましょうということいなりました。山口市内にある日赤病院の中の院内学級で教えていらっしゃる先生が 1週間の空いている時間を私の自宅まで来てマンツーマンで教えられることだけをしましょう。 小学校をすっ飛ばして中学校の訪問教育を15歳から受けるようになったんですね。

Hisako Nakano/English

At that time, there was a system that allowed people to be exempted from compulsory education, so I myself did not attend either elementary school or junior high school. That’s why I think I probably still can’t do even the basic arithmetic that lower-grade elementary students learn. 

When I turned fifteen — normally the age when a student finishes compulsory education after the third year of junior high school — it was decided that I should receive home-visit education.A teacher who taught at the school within the Japanese Red Cross Hospital in Yamaguchi City would come to my home during his free time once a week and give me one-on-one lessons. I skipped elementary school altogether and began receiving junior-high-level home-visit education from the age of fifteen.

Hisako Nakano/ German

Damals gab es die Möglichkeit, von der Schulpflicht befreit zu werden, und deshalb habe ich selbst weder die Grundschule noch die Mittelschule besucht. Daher denke ich, dass ich wahrscheinlich bis heute nicht einmal die einfache Mathematik beherrsche, die Kinder in den ersten Grundschuljahren lernen.

Als ich 15 Jahre alt wurde – also in dem Alter, in dem man normalerweise die neunte Klasse abschließt und die Schulpflicht endet – wurde beschlossen, dass ich Hausunterricht bekommen sollte.

Ein Lehrer, der an der Schulklasse im Rotkreuz-Krankenhaus in der Stadt Yamaguchi unterrichtete, kam einmal pro Woche in seiner freien Zeit zu mir nach Hause, um mir im Einzelunterricht nur das beizubringen, was möglich war. So begann ich mit 15 Jahren, ohne je die Grundschule besucht zu haben, den Hausunterricht auf Mittelschulniveau zu erhalten.

佐藤 順子/さとう じゅんこ/日本語

最初から私は親がいないと知らされていたのが、 突然、親がいましたよって言われて、「ああ、そうですか」とはいかなったですよ。これは、昌也くんもそうだったと思うんですけど。 かといって、親を憎んでもいなかったですけど、「ひとりぼっちなんだ、ずっとひとりぼっちなんだ」という感覚でいたので、かえって気が強い人間になったかもしれませんね。

JUNKO SATO/English

From the beginning, I had been told that I didn’t have any parents.

Then suddenly, I was told, “Actually, you do have parents,” and of course, I couldn’t just say, “Oh, I see,” as if it were nothing.

I think it was the same for Masaya-kun as well.

That said, I never hated my parents.

But because I always felt, “I’m all alone — I’ve always been alone,” maybe that’s why I became a strong-willed person.

JUNKO SATO/ German

Von Anfang an wurde mir gesagt, dass ich keine Eltern habe.

Dann hieß es plötzlich: „Eigentlich hast du doch Eltern“, und natürlich konnte ich da nicht einfach sagen: „Ach so, verstehe“, als wäre es nichts.

Ich denke, bei Masaya-kun war es genauso.

Das heißt aber nicht, dass ich meine Eltern gehasst habe.

Aber weil ich immer das Gefühl hatte: „Ich bin ganz allein – ich war schon immer allein“, bin ich vielleicht ein willensstarker Mensch geworden.

河口 智彦/かわぐち としひこ/日本語

私自身は、はっきりとした記憶ないのですが、5歳くらいに自分の耳がないことに気がつきました。

母の話を聞くと私は母の耳を握って耳がほしいというような動作をした

そうです。

耳が無いため、周りの人から見えないように母手作りの耳のカバーを細で結び覆っていました。

自宅前の道は、通学路だったので行き交う小学生達に「あれはなんだ!」と馬鹿にされたり笑われたりして悔しい思いが積み重なっていったのを覚えています。

TOSHIHIKO KAWAGUCHI/English

I don’t have a clear memory of it myself, but I realized that I didn’t have ears when I was about five years old.

According to my mother, I used to grab her ears and make gestures as if to say that I wanted ears of my own.

Because I had no ears, my mother made handmade ear covers for me, tying them on with strings so that other people couldn’t see.

The road in front of our house was a route children used to walk to school, and I remember how painful it was when they laughed at me or made fun of me, shouting, “What’s that?” as they passed by.

TOSHIHIKO KAWAGUCHI/ German

Ich selbst habe keine klare Erinnerung daran, aber ich bemerkte etwa im Alter von fünf Jahren, dass ich keine Ohren hatte.

Laut meiner Mutter griff ich oft nach ihren Ohren und machte Gesten, als wollte ich sagen, dass ich auch eigene Ohren haben möchte.

Da ich keine Ohren hatte, nähte meine Mutter mir handgemachte Ohrabdeckungen, die sie mit Schnüren festband, damit andere sie nicht sehen konnten.

Die Straße vor unserem Haus war ein Schulweg, und ich erinnere mich, wie schmerzhaft es war, wenn die Schulkinder an mir vorbeigingen, über mich lachten oder riefen: „Was ist das denn?“

市川 昌也/いちかわ まさや/日本語

昌也:結局サリドマイドになったことで 例えば自分の家族がバラけたし、 で、多分普通に生きていけば味わうまで良かったような その苦しみを味わってきたわけじゃない、結果的にね。 で、そのことはやっぱり理不尽だと思うし、 で、それをやった奴らが、のんのんと片一方で生きているわけだよ。 で、知らん顔。 だからそのことに対しては、何なんだって感じだよね。 

ゆかり:何を支えに頑張りました? 最初は憎しみだよね。

昌也:うん。 で、いつか何度も仕返ししてやるっていう。

ICHIKAWA MASAYA/English

Masaya: In the end, because I became a thalidomide victim, my family was torn apart. And I’ve gone through kinds of suffering that, if I had lived an ordinary life, I probably never would have experienced. That’s just the reality. I still think it’s totally unjust. And the people who caused all this— they’re living comfortably on the other side, acting like nothing happened. That really makes me think, “What the hell is that?”

Yukari: What kept you going? What gave you strength?

Masaya: At first, it was hatred. Yeah… I thought, “Someday, I’ll get back at them—again and again.

MASAYA ICHIKAWA/ German

Masaya: Letztendlich ist es so, dass durch das Thalidomid mein Leben völlig auseinandergebrochen ist – zum Beispiel meine Familie.

Ich musste ein Leid erfahren, das ich wahrscheinlich nie erlebt hätte, wenn ich ein „normales“ Leben hätte führen können.

Das empfinde ich als zutiefst ungerecht.

Und die, die das angerichtet haben, leben auf der anderen Seite ganz ruhig weiter – so, als ginge sie das alles nichts an.

Das macht mich wirklich wütend.

Yukari: Was hat dich damals getragen, was hat dir Kraft gegeben?

Masaya: Am Anfang war es Hass.

Und ich dachte immer wieder: Eines Tages werde ich mich rächen.

ドイツからの参加者イルロンカ・ステブリッツさんからのメッセージ

親愛なる日本のサリドマイド被害者の皆さま

そして関心をお持ちの皆さまへ

私の名前はイルロンカ・ステブリッツ(Ilonka Stebritz)です。1961年12月にドイツで生まれました。サリドマイド(ドイツではサリドマイドをコンテルガンと呼ぶ、以下名称をサリドマイドに統一)障害を持つ約5,000人の子供たちの一人です。私が生まれたとき、母は17歳でした。

4歳になるまで、私は何度もサリドマイド病棟に入院させられました。そこでは、足を動かすことを学ぶことになり、私に合った補助器具が開発・調整され、将来への準備も整えられました。

5歳から地元の幼稚園に通い、6歳で地元の小学校に入学し、10歳からは隣町の総合学校に通いました。

学校卒業後、行政事務職員(Verwaltungsfachangestellte)として研修を受け、2005年までこの職業に従事しました。2005年、サリドマイド感染による二次的被害のため、*障害年金(Erwerbsminderungsrente)を申請せざるを得なくなりました。

*ドイツの公的年金制度(Deutsche Rentenversicherung)の一部で、病気や障害などの理由で通常の労働ができなくなった人に支給される年金。つまり、老齢年金(定年後にもらう年金)ではなく、働けなくなった時点で支給される生活保障の一種。

2005年に障害年金を受給した後、私はサリドマイドをめぐる物語を深く掘り下げました。そして、グリュネンタール社(サリドマイドを開発した製薬会社)が胎児に危害が及んだという情報を得た時点で、妊娠中の動物を対象とした重要な試験を実施していれば、私はコンテルガンの被害を受けずに生まれていたかもしれないことに気づきました。

調査を進める中で、私は同じサリドマイド症患者たちの生活環境が耐え難く、ひどく劣悪なものであることをますます知るようになりました。彼らはサリドマイドによる被害のために補聴器や車椅子といった補助器具に頼らざるを得ませんでしたが、本来彼らにとって当然であるはずのケアを受けられなかったり、あるいは渋々受けさせてもらったりしていました。

リハビリやマッサージなども同様で、必要な量・期間の支援を受けられなかった人が多くいました。。

重度の障害を持つ人の中には、家庭環境も過酷な人がいます。冬には、雪かきをしてくれる人が来ないと家を出られなかったり、家族から「外に出るな」と言われ、家の中に閉じこもるよう強いられた人もいました。家で電球が切れると、誰かが来て交換してくれるまで待たなければならなかった人もいます。

これらすべては、彼女たちが胎児期にサリドマイドを投与されたせいです。私は何かを変えなければならないと思いました。彼女たちも、同年代の人たちと同じように、旅行したり、友人と夕食に出かけたり、映画を見たり、あるいは何か楽しいことをしたりできる人生を送る機会を与えられるべきだと。だからこそ、私は可能な限り、仲間たちの生活をより良くするための活動に関わることを決意しました。

私が非常に懸念していたもう一つの問題は、老後の保障でした。

私自身、サリドマイドによる障害のため、収入能力が減額された年金を受給するようになりました。その結果、年金保険制度に重要な拠出を行うことができなくなり、年金もそれに応じて低額でした。サリドマイド障害の影響を受けた他の人々は、サリドマイド障害のために全く働くことができず、老後の保障が全くない人もいました。しかし、年齢を重ねるにつれて、支援の必要性が増し、それに伴う費用も高くなることは明らかです。私たちのわずかな年金では、それに対処することは不可能でしょう。ですから、私は様々な理由から、この状況を変えるために集中的に取り組むことが重要だと考えました。私たちは、生涯をかけて働いていた場合と同じ立場に立たなければなりません。

サリドマイド財団の私の知り合いもほとんどは、給付金の額を早急に上げる必要があると考えていました。長年にわたり、給付金は増額されず、あるいは十分な増額もされず、もはや私たちが子供時代に感じていた給付金とは見合うものではありませんでした。

私たちが子供だった頃、財団の給付金は女性の月給や給与とほぼ同額でした。しかし、2007年と2008年には、標準的な生活保護受給額とほぼ同額になりました。

財団の給付金は補償関連の性質も持ち、必ずしも車椅子や補聴器などの不利益に対する補償金を賄うことを意図しているわけではなく、むしろ日常生活における幸福と、サリドマイド被害にもかかわらず社会生活に参加する能力に貢献することを目的としています。

しかし現実には、被害を受けた人の中には、サリドマイド年金から補装具やマッサージの費用を賄わなければならない人もいました。

長年にわたり浮上してきたもう一つの問題は、眼鏡や入れ歯の提供です。サリドマイド障害のある方には、従来の入れ歯を提供することができないことは明らかでした。なぜなら、彼らは日常生活でも歯を使うからです。ボトルを開けたり、ブラインドを上げたり、時には歯で袋を挟んだりすることもあります。このような場合、すぐに外れてしまうような入れ歯はあまり役に立ちません。そのため、インプラントのようなしっかり固定できる歯が必要でした。眼鏡の提供はかつては健康保険組合の責任でしたが、その後完全に廃止されたため、今では誰もが自分で眼鏡を購入しなければなりません。私のように視力が低下した人は、非常に近いものを見るための眼鏡と、遠くにあるものを見るための眼鏡など、異なる眼鏡を必要とするため、残念ながら複数の眼鏡が必要になることがよくあります。また、健康保険が適用されなくなったため、費用が高額になることもあります。

私のように、財団の給付金の水準を早急に変更する必要があると考えていた被災者もいますが、何も変えられない、これは一度決定された問題だと考えていた被災者もいました。数ヶ月後、彼らの考えは誤りであることが証明されました。

サリドマイド被害者の様々なグループが長年にわたって行ってきた活動があります。

こうした活動だけでは目標達成には至りません。もっと多くの働きかけが必要でした。そして、これまで共に活動してきた他の被害者たちと同じことをしても無駄だと悟ったため、私はサリドマイド被害者連盟に協力を依頼しました。そこで私は、要求リスト作業部会、そして後に研究プロジェクト作業部会のリーダーを任されました。要求リスト作業部会では、サリドマイド被害者連盟加盟団体が提出した要求を、その根拠となる論拠と情報によってサポートしました。要求リスト作業部会の成果の一つは、要求を事実と科学に基づいて裏付けるためには、研究プロジェクトを立ち上げ、あるいは提案することが賢明であるという点でした。

この研究プロジェクトの結果は、政策立案者がサリドマイド被害者の生活状況のさらなる改善を決定するための基礎となりました。

人生を向上させる道のりは、時に困難で、悲しく、もどかしく、失望させられることもありました。しかし、それでもその道を歩み、目標に向かって努力し続ける価値はありました。

ウドさんのインタビュー

最初の頃は、何十年もの間、私たちはグリュネンタール社の門の前で必死になって座り込みをしたり、ローソクに火をつけたり慰霊を行うなど繰り返していました。しかし、目立った効果はありませんでした。2007年だったと思いますが、テレビ局はフィクションのドラマを作りました。私たちは一生に一度のチャンスを掴まなくてはならないと思いました。それをきっかけに何かを変えなければならないと、われわれは思っていました。他の国では国からの支援も充実していて、健康問題でもさまざまなサポートが行われていたことを知っていたからです。

当時は年金が低く、生活が厳しい人もいました。ドラマが放送されると、世間はドラマに注目、多くの人が視聴しました。過去の映像を使ったドキュメント番組も作られました。サリドマイド/コンテルガンが社会で話題になり、国は仕方なく、私たちに年金を2% 上乗せすると言ってきました。足りないと言ったら4%にすると言ってきました。それはわずか20ユーロだけでした。国との交渉には何か対策を考えなくてはいけない、どのような方法が良いのか、どのような形が望ましいのか考えた結果、NPOのようなものを作ると選挙が必要だったり、何かアクションを起こそうとすると、メンバーの同意がなければできないということで、かなり時間がかかることがわかりました。ことが進まないと市民運動のための団体を作ることにしました。これがInternational Contergan Thalidomide Alliance/ICTAです。2008年、ケルンで初めての集会を開きました。10人ほどが集まりました。ずっと犠牲者/被害者でいたいのかと問いかけました。


以上はドイツでインタビューした内容。

国際サリドマイドシンポジウムでこのビデオが流されたあと、ネットで繋いでインタビューした内容はこちら。

バーバラ・ベルトマーさんからのメッセージ

私の名前はバーバラ・ベルトマー(Barbara Bertmar)です。

私は64歳で、ドイツのサリドマイド被害者です。障害をもって生きるということは簡単ではありません――私たちは皆、それを知っています。しかし、障害をもったまま年を重ねていくことは、さらに大変なことです――これも皆、よくわかっています。

私は30年前、スウェーデンで開かれたサリドマイド世界会議でゆかりさんに出会いました。そして最近、ケルンで再会しました。

私たちは、日本のサリドマイド被害者の現状について長く話し合い、彼女は特に医療的支援が不足していることを教えてくれました。サリドマイド被害者特有の問題に詳しい医師や看護師、理学療法士がいないのです。

皆さんは日本社会の対等な一員であり、他の人たちと同じようにその中にしっかりと属しています。他の誰かと同じように、尊厳をもって生きる権利があり、皆さんのニーズや訴えがきちんと考慮されるべきです。

ゆかりさんが「ONE TEAM」を設立したことは、とても素晴らしいことであり、それは絶対に必要なことだと私は思います。だからこそ、皆さんが彼女に加わり、彼女を支えてほしいと心から願っています。

このシンポジウムは、そのためのとても重要な一歩です。また、社会や政治家に皆さんの存在と問題を知ってもらうことは不可欠です。

たとえばドイツでは、サリドマイドを開発した製薬会社グリューネンタール社の前で追悼の抗議行動を行い、首都ベルリンでもデモ行進をしました。

もちろん、ドイツの状況をそのまま日本に当てはめることはできません。ですが、政治の場で皆さんの厳しい医療的状況を理解してもらうこと――

たとえば保健大臣などに、専門知識をもった医師や看護師、理学療法士の必要性を訴えることは、とても大切です。こうした専門家は、ドイツと協力して養成することもできるでしょう。

また、「ONE TEAM」という団体に、宗教、スポーツ、音楽、映画、演劇などの分野で知られる方――

男女それぞれの著名な方を名誉会長(または支援者)として迎えることも、社会の理解と共感を広げるうえで役立つかもしれません。簡単な道ではありません。

でも、それは一歩一歩、歩みを進めていく過程です。共に歩み出すことで、状況を改善するチャンスを手に入れられるのです。

ジャマイカのボブ・マーリーのレゲエの歌を知っていますか?

“Get up, stand up, stand up for your right!

Get up, stand up, don’t give up the fight!”

(立ち上がれ、自分の権利のために! 戦うことをあきらめるな!)

ありがとう(ARIGATŌ)――聞いてくださって感謝します。

皆さんの活動と目標が実を結びますように。

そして、2026年10月にオランダで開かれるサリドマイド世界会議で、またお会いできるのを楽しみにしています。

さようなら(SAYŌNARA)

国際サリドマイドシンポジウム会場への行き方

2025年10月17日(金)のサリドマイドミーテイングと同年10月18日(土)の国際サリドマイドシンポジウムの会場はともに、ビジョンセンター東京八重洲内の905号室とビジョンホールです。東京駅からそこまでの道順を解説いたします。

所在地は、東京都中央区日本橋2-3-4 日本橋プラザビル9F ビジョンセンター東京八重洲です。17日はビジョンセンター東京八重洲内の905号室。18日はビジョンセンター東京八重洲内のビジョンホールを使います。

開始時刻はともに15時です。時間的余裕をもってご来場ください。

東京駅から会場までの地図は以下の通りです。地図上の①〜⑨は写真撮影の場所。矢印は写真を撮影した方向です。

Screenshot

① まず、東京駅八重洲中央口一階から外に出てください。八重洲中央口には以下の看板が出ています。

② ここから外の出ると、このような景色です。

③ 目の前の道を渡って左に行ってください。その時の景色は以下の通り。

④ 渡りきって左を向くと地下パーキングの入り口があります。この方向で100mほど歩きます。

⑤ 右手の看板を見たら、横断歩道を渡ってからさくら通りを右に進みます。

⑥ 右に曲がったときの景色は以下のようなもの。ここから約135m。まっすぐ進む。

⑦ 会場手前に信号があります。「おかしのまちおか」の赤い看板を見たら安心してまっすぐ進んで下さい。

⑧ 「おかしのまちおか」の隣のビルが目的地。「おかしのまちおか」の建物をとおりすぎると左手に日本橋プラザビルの看板があります。

⑨ 入り口正面はこのような風景。まっすぐ中に入ります。

⑩ 中に入ると右手にエスカレーター、左手にエレベーターがあります。左手のエレベーターで9階へ上がってください。

⑪ 9階で降りたらそこが会場入り口。

入り口の左側に以下のような看板があります。 17日は905号室、18日はビジョンホールにそれぞれ「サリドマイドミーティング」「国際サリドマイドシンポジウム」と表示があるはずです。写真はフォトショップで加工しました。

会場でお目にかかるのを楽しみにしています。

厚労省の記者クラブで記者会見をいたしました

9月24日に厚労省の記者クラブで記者会見を行いました。One Teamからの出席者は、増山ゆかり、福原麻希とKさんです。

配布資料は2点。Facebookでメンバーを募ろうと作った呼びかけ文と、国際サリドマイドシンポジウムの企画書です。

産経新聞が幹事社です。ちょっと緊張気味の増山が、One Teamの立ち上げ経緯を説明、続いて国際サリドマイドシンポジウムの内容を説明しました。今回の記者会見は、国際サリドマイドシンポジウムの取材のお願いと、シンポジウムをイベントのお知らせなどに載せていただけるようお願いしました。

いろいろ質問が出て、ほぼ1時間の記者会見となりました。

派手さはありませんが、命にかかわることで困っている人がいて、助けを求めていることは、伝わったように思いました。

興味深い質問としては、「他にサリドマイドを支援する団体はないのか?」や「今後、どのような活動をしていきたいのか」など、興味を持っていただいたと思われる感触でした。いしずえを紹介し、治療が受けられる体制/病気の研究や、仲間同士の交流を行いたいなど説明しました。(いしずえの存在を知らないようでした。)

特に会見のあとの名刺交換の際に、お手伝いしたい、今後も継続して情報を入手したいなど、具体的に励ましのお言葉も頂戴しました。たどたどしい私の説明でしたが、サリドマイドの人々が、時間と共にいろいろな問題があることがわかり、十分な対応ができていない状況になっているというのは、理解いただいたと思います。

もしどこかで記事になっているのを見つけたら以下にコメントをください。よろしくお願いいたします。

国際サリドマイドシンポジウム 2025 企画書

〜サリドマイドが抱える問題から社会のありようを捉える〜

サリドマイドは1957年に西ドイツの製薬会社が開発した睡眠薬で、日本では1950年代末から1960年代初頭まで、睡眠薬や胃腸薬に使われ販売されました。サリドマイドの胃腸薬は、つわり止めとして推奨されたことから、服用した妊婦の胎内で胎児は副作用で四肢、耳、内臓などに奇形を起こしました。世界規模で見れば10,000人以上が被害を受け、日本でも被害者数は1000人を超えたと言われています。1963年、被害者は国と製薬会社を訴え、原因の究明と救済を求め裁判を起こしました。1974年、11年もの長い闘争の後でようやく和解が結ばれました。そこから長い時間が流れましたが、胎内で副作用を負った被害者の身体は、通常の身体と構造が著しく異なるせいで、既存の医療体制では充分にサポートが受けられないことがわかっていきました。2000年以降、体調不良を訴える人が増え、健康問題などに向き合おうと国際サリドマイドシンポジウム、サリドマイドミーティングを開催したいと思います。参加費は無料です。

【サリドマイドシンポジウム開催概要】

体調不良は、本人や家族の高齢化が進んだことによる環境の悪化だけではなく、体を酷使したことによる二次障害、知られていない未知の健康問題など指摘されています。慢性的な痛みや疲労があることで、これまで可能だった自立した生活の維持が困難になり、支援への依存度が高まるが既存の制度では対応しきれていない現状があります。

【開催目的】

これらの深刻化する生活環境の悪化に対し、被害者が直面している問題を社会と共有しながら、私たちはどう課題に向き合ったら良いか考えました。医療/福祉/政策の各分野で支援が必要な現状であることは間違いないのですが、複合的な先天異常を抱えるサリドマイドは、既存の制度の中で解決するのが難しいと感じています。海外のサリドマイドたちがどう向き合っているのか、どう乗り越えようとしているのか情報を共有したいと思います。孤独感が増す中で、海外のサリドマイドと勇気や友情を分かち合い、本来の自分の歩く道をとらえていきたいと思います。家族に愛され愛する人生だったのか、患者として患者の権利に守られたのか、日本は国として正義を行うことができたのだろうか? サリドマイドとして生まれてきたドイツや台湾の人々とともに、それぞれの情報を共有することで「自分たちのあるべき人生」を読み取っていきたいと思います。サリドマイドの⼈々がどんなふうに⽣きてきたのか。60 年代に社会を震撼させた薬害事件の当事者が、どういう終わりに向かっているのか。⽇本社会は知る必要があると思います。

*ドイツ語通訳、英語通訳、要約筆記、手話通訳がつきます。交通費、宿泊費の合計が15,000円を超える場合は、サリドマイドご本人に限り10,000 円を超えた場合、10,000 円を上限に超えた部分を補助いたします。ご利用の場合は、領収書をご提示ください。

【サリドマイドミーティング】 50人程度の参加を予定

日 時:2025年10月17日15:00〜18:00

開催場所:東京都中央区日本橋2-3-4 日本橋プラザビル9F 905号室

開催内容;来日されるシンポジストの皆さんと、少人数でじっくり親しく交流ができる集いの場をセッティングしました。

【国際サリドマイドシンポジウム】 200人程度の参加を予定

日 時:2025年10月18日15:00〜19:00

開催場所:東京都中央区日本橋2-3-4 日本橋プラザビル9F Vision Hall

開催内容;ドイツ、台湾のサリドマイド当事者などによる実態報告と今後の課題

【今回のイベント来場者】

市民、医療関係者、大学生、サリドマイドなど

【広報計画】

大学・医療機関・自治体の広報協力を得て情報を発信

SNS(X/Facebook/YouTube)とウェブサイトで周知

地元新聞・医療系メディアへの情報提供

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主催/企画:増山ゆかり 共催:One Team

お問い合わせ/お申し込み:

vza02115@nifty.com 増山ゆかりのメールアドレス

090 8495 4897 (仕事中は出られません。ご了承ください)

国際サリドマイドシンポジウム開催決定

国際サリドマイドシンポジウムの開催が決定いたしました。

開催日:2025年10月18日15:00〜19:00

開催場所:日本橋プラザビル9F Vision Hall
      東京都中央区日本橋2-3-4

開催理由と開催内容:
ドイツではサリドマイドの当事者が自らの人生を語ることで、自分たちの人生のありようが理不尽だったと社会に訴えました。それによって国の政策決定や社会の価値観を動かすきっかけになりました。当事者が声を上げ続けたことで、人々は彼らの声に耳を傾けました。「生きていたい」「尊厳ある人生を送りたい」という想いに共感し、理不尽な出来事や苦しみを理解し制度改正の後押しをしました。

人類の経験したことがない体を持つ私たちは、痛みがあってもときには原因が特定できないせいで医療行為が受けられず、耐えるだけしかできませんでした。長い人類の歴史の中で蓄積してきた現代医療の、既存の知識や制度を活用したくてもできないことがあるのです。その恩恵を受けることができないのです。60歳を超えた私たちは考えます。どのように生き切れば良いのかと?

国際サリドマイドシンポジウムでは、ドイツでサリドマイドの人々が、どのようにサリドマイドに生まれたことに向き合い、さらに人として自らの意思で自らが歩む人生が、どういう人生であって欲しいのかに直面することで社会に変革をもたらしたことに学び、日本のサリドマイドサバイバーがどのように生きていくのかを考える機会といたします。

40カ国以上でサリドマイドは販売されました。10,000人以上の人々が巻き込まれた未曾有の薬害サリドマイドが、60年という長い年月を経て国の垣根を超えて結集しようとしています。先頭にいるドイツ社会であっても、理解を促すことはたやすくありません。どのように彼らが奮闘し、どのような人生を愛おしく思えるのか、同じ時代を生きているものとして知りたいと思いませんか? 知るべきだと思いませんか? いま私たちは、各々の人生の終末をどういうものであるべきか、どうあって欲しいかに向き合っています。

国際サリドマイドシンポジウムでは、国や製薬会社と対話することで補償の見直しを成し遂げたドイツのサリドマイドサバイバーを迎え、その経緯についてお話を伺います。また、あまり知られてはいませんが、台湾でも日本の製薬会社は同じ薬を販売し、38人の被害者を出し補償を行っています。今回は台湾からもサリドマイドサバイバーを迎え、今後の人生のあるべき姿を描きたいと思います。

国際サリドマイドシンポジウム開催で、医療関係者/教育者の提言や、マスコミの誠実な報道などが、社会全体に理解や共感を広めることができるのだと思います。遥か先をいくドイツの人たちの言葉に耳を傾け、自分たちが本来歩むべき道を捉えたいと思います。

予定されているシンポジスト:
Udo Herterichさん
Bundesverband Contergangeschädigter e. V.(ドイツ連邦サリドマイド被害者協会)の会長
Interessenverband Contergangeschädigter NRW e. V.(ノルトライン=ヴェストファーレン州被害者協会)の設立者/会長

Claudia Schmidt‑Herterichさん
Interessenverband Contergangeschädigter NRW e. V.(ノルトライン=ヴェストファーレン州被害者協会)の設立者/スポークスパーソン

Klaus Michelsさん
Bundesverband Contergangeschädigter e. V.(ドイツ連邦サリドマイド被害者協会)副会長

Ilonka Stebritzさん
Bundesverband Contergangeschädigter e. V.(ドイツ連邦サリドマイド被害者協会)スポークスパーソン

TJ Wangさん
台湾における38人のサリドマイド被害者の一人。生まれは台湾ですが、差別に遭い就職を機に渡米。アメリカ・ガバナーズ州立大学の元名誉教授。現在、台湾に帰国しサリドマイドの権利行使のために戦う中心人物。